福井市: 大安禅寺

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概要・歴史・観光・見所

大安禅寺(福井市)概要: 萬松山大安禅寺は福井県福井市田ノ谷町に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。大安禅寺の創建は不詳ですが奈良時代に泰澄大師が竜王山田谷寺として開いたのが始まりとされ中世は寺運が隆盛し多くの坊舎が建ち並び門前町も発展していたと云われています。

寺宝として伝えられている文殊菩薩や大日如来座像は平安時代末期の作とされ元弘3年(1333年)には後醍醐天皇から綸旨を賜っています。

天正2年(1574)の織田信長の越前侵攻の兵火により全山焼き討ちにあい衰微しましたが万治2年(1659)、福井藩4代藩主松平光通(徳川家康の曾孫)が両親と祖先の菩提を弔う為 大愚宗築禅師を招いて改めて開山し、寺号は光通の戒名「大安院殿賢譽徳智超万大居士」に因み大安禅寺に改められています。

以来、福井藩松平家の歴代菩提寺として境内が整備され、泰澄大師が開いた田谷寺に38坊があったことに因み38の堂宇が建立されました。

現在の大安禅寺本堂は万治2年(1659)に建てられたもので、入母屋、桟瓦葺(旧茅葺)、唐破風玄関付、桁行25.87m、梁間18.2m、内部は「上間」、「内陣」、「下間」、「室中」、「脇ノ間」などに別れ御成ノ間や大玄関、狩野派が描いた襖絵や杉戸板、障壁画などがあり大名の菩提寺にふさわしい造りになっています。

開基堂は延宝5年(1677)、5代藩主松平昌親が先代藩主松平光通(延宝2年:1674年自殺)の菩提を弔う為、建立したもので宝形造り、桟瓦葺(元柿葺)、花頭窓付、外壁は黒漆塗仕上げ、桁行6.57m、梁間6.82m、大工頭関清助、棟梁岩崎久右衛門、内部には日光東照宮(栃木県日光市)のような極彩色豊かな厨子が安置されています。

大安禅寺山門は寛政4年(1792)に建てられたもので、切妻、桟瓦葺、間口1間、高麗門形式。庫裏は万治元年(1658)に建てられたもので、入母屋(背面寄棟)、桟瓦葺、桁行22.7m、梁間18.0m。鐘楼は寛文3年(1633)に建てられたもので入母屋、桟瓦葺、桁行1間、梁間1間。

大安禅寺の境内には創建当初の建物が数多く残され、当時の藩主菩提寺として大規模かつ格式の高い建物として大変貴重な事から本堂・庫裏・開山堂・開基堂・鐘楼の5棟が平成20年(2008)に国指定重要文化財に指定されています。

又、大安禅寺本堂背後にある山頂付近に石畳1360枚敷かれた"千畳敷"と呼ばれる歴代藩主(初代結城秀康、3代松平忠昌、4代光通、5代昌親、8代吉邦、9代宗昌、10代宗矩、11代重昌)の廟所があり、墓碑は越前産青石、唐破風笠屋根付墓塔、高いものは約3.7mあり格式の高いものになっています。

北陸三十三ヶ所観音霊場第10番札所(札所本尊:十一面観音菩薩・御詠歌:慈悲の峰 よろずよ松の大安寺 法の御声の とはに尽きなん)。山号:萬松山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:十一面観音菩薩。

【 大安禅寺菩提者:福井藩主松平家 】-初代藩主となった結城秀康は徳川家康の次男で兄である信康が自刃した事で残された兄弟の中では一番の年長者でしたが、豊臣秀吉の養子になった後、結城家の養子となり家督を継いだ事により2代将軍にはなれませんでした。当初は結城家10万1千石でしたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、宇都宮に布陣し西軍方の上杉景勝を牽制した功により越前国67万石の国持大名となり、北ノ庄(福井)藩を立藩します。

2代松平忠直は大坂の陣で功を挙げたものの恩賞が与えられなかった事から次第に徳川宗家に対し反抗的な立場を取ったとされ元和9年(1623)、忠直は強制的に隠居となり豊後国大分に流され遺領は幕府が一時取り上げる形となりました。

寛永元年(1624)、秀康の次男である松平忠昌(当時の高田藩主)が50万石で北ノ庄(福井県福井市)に入封し地名を福井に改められています。

4代松平光通は庶兄の松平昌勝に5万石(松岡藩)、庶弟の松平昌親に2万5千石を分与し45万石となり、一方で良政を行ったものの度重なる天災や火災などで財政が悪化し、正室に嫡男が生まれないなど家庭でも問題が続出し延宝2年(1674)に自殺しています。

5代藩主には遺言により光通の庶弟の松平昌親が就任しましたが、光通には庶子である松平直堅や庶兄松平昌勝の存在もあり不穏な雰囲気を感じとり2年後の延宝4年(1676)には昌勝の嫡男綱昌を養子に迎え家督を譲り隠居しています。

6代綱昌は藩政に明るくなく、さらに貞享2年(1685)江戸城登城を怠るなど幕府からも不信にとられ、翌貞享3年(1686)に強制蟄居(記録上は綱昌が狂気を発した事が理由となっています)の上石高を25万石に半減され7代藩主は昌親が再任され名を吉品に改めています。

松平吉品は家臣の人員整理や俸禄の半減、「御家御条目」や「御用諸式目」の制定、「紙会所」の設置、「藩札」の発行などを行いましたが次第に財政が悪化します。8代松平吉邦は名君とされ先代に引き続き、藩政改革や民政改革に尽力し善政を行ったとされ自らも質素倹約に努め、幕府からは天領10万石の管理を任されています。

9代松平宗昌は吉邦の兄である共に松岡藩でもあった為、石高が併合され30万石となっています。

10代松平宗矩も善政を行い領内の殖産に力を入れ漆の植林や三国湊の整備を行い、幕府からは越前国内にある天領全ての管理を任されています。

12代松平重富は一橋家からの養子で家風に合わず悪政や自らの贅沢によって財政悪化に拍車をかけ明和5年(1768)には大規模の打ちこわしが発生しています。

13代松平治好の代に2万石が加増され32万石となり文化4年(1807)には済世館(医学所)を創設しましたが慢性的な赤字財政は改善される事はありませんでした。

16代松平春嶽は徳川斉匡の8男として生まれ幕末の幕政に大きな影響力を持ち「幕末四賢侯」の一人に数えられています。

大安禅寺(福井県福井市)は福井藩松平家の菩提寺で万治2年(1659)、4代藩主松平光通によって竜王山田谷寺を再興し光通の戒名「大安院殿賢譽徳智超万大居士」に因み萬松山大安禅寺に寺号を改めています。大安禅寺境内の多くの建物は江戸時代初期から中期に建てられたもので国指定重要文化財に指定されています。

大安禅寺の文化財
・ 大安禅寺本堂−万治2年−入母屋、桟瓦葺、唐破風玄関−国指定重要文化財
・ 大安禅寺庫裏−万治元年−入母屋(背面寄棟)、桟瓦葺−国指定重要文化財
・ 開山堂−寛文10年−宝形造、桟瓦葺、正面1間向拝付−国指定重要文化財
・ 開基堂−延宝5年−宝形造、桟瓦葺、花頭窓付−国指定重要文化財
・ 大安禅寺鐘楼−寛文3年−入母屋、桟瓦葺、4本柱−国指定重要文化財
・ 大安禅寺宝庫・中門・塀中門-国指定重要文化財
・ 兆殿司筆羅漢図2幅 −鎌倉−縦103.6×横45.6cm−国指定重要文化財
・ 絹本彩色双雀の図(伝馬麟画)−南宋時代−松平光通寄進−福井県指定文化財
・ 絹本著色南蛮船風俗図−江戸−縦154.4×横172cm−福井県指定文化財
・ 木造文殊菩薩坐像−平安時代−寄木造、像高145.5cm−福井県指定文化財

大安禅寺:上空画像

高麗門を簡単に説明した動画

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-福井県-出版元:株式会社人文社
・ 現地案内板-萬松山大安禅寺


大安禅寺:ストリートビュー

大安禅寺:写真

大安禅寺参道正面に設けられた山門
[ 付近地図: 福井県福井市 ]・[ 福井市:歴史・観光・見所 ]
大安禅寺参道の石段と御堂 大安禅寺参道石畳みから見た本堂正面 大安禅寺本堂左斜め前方 大安禅寺本堂玄関の唐破風屋根
大安禅寺開基廟所と阿吽庭 大安禅寺境内砂利とその奥の鐘楼と梵鐘 大安禅寺境内に置かれている座禅石 大安禅寺本堂前に安置されている観音石


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