福井市(歴史)概要: 福井市は足羽山古墳が築かれるなど古くから開かれた地域で、この地を開拓したとされる継体天皇と関係が深い足羽氏一族が支配していたと考えられています。その後、奈良東大寺や興福寺の荘園地として開発が進み神明社などの門前町も開かれました。
中世に入ると朝倉氏が台頭し、室町時代後期になり越前国守護職の地位を得ると、本拠となった一乗谷が飛躍的に発展し、当時の地方都市では類例を見ない独自の文化が見られるようになり人口も1万人を超えていたと言われています。
天正元年(1573)、織田信長の越前侵攻により朝倉氏が滅亡し、一乗谷が廃塵に帰すと、越前国は家臣である柴田勝家に与えられます。勝家は新たに安土城(滋賀県安土町)にも匹敵する北ノ庄城を築城、一乗谷から城下町や多くの寺院を移し領内経営を行いましたが、天正10年(1582)、織田信長が本能寺の変で倒れると羽柴秀吉との権力闘争に敗れ天正11年(1583)に城を枕に自害します。
江戸時代に入ると結城秀康(徳川家康の2男)が関ヶ原の戦いで会津の上杉家を押えた功により結城領(茨城県結城市)から67万石の太守となり福井藩(当時は北ノ庄藩)を立藩、しかし、元和9年(1623)、2代藩主忠直が乱行の為改易となり、越後高田城(新潟県上越市)の城主で弟の忠昌が52万石で福井に入りました。
さらに貞享3年(1686)には6代藩主綱昌が強制隠居させられ25万石に厳封させられ親藩ながら大きな問題を何度も起しています。
16代藩主慶永(春嶽)は幕末の名君で知られ、次々と藩政改革を断行し幕府にも大きな影響力を持つようになり、薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内豊信(容堂)、宇和島藩の伊達宗城と共に幕末の四賢侯の1人に数えられました。
又、福井城の城下町は北国街道と勝山街道が分岐する交通の要衝で、大消費地だった事もあり経済的にも大きく発展しました。
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