三国湊城(坂井市)概要: 案内板によると「 中世に勢力を誇った三国湊白山千手寺は、南北朝の動乱の際に城郭として利用され、湊しろあるいは千手寺城と呼ばれた。「太平記」には「中にも湊城とて、北陸道7箇国の勢共が終に攻落せざりし城は、義助の若党畑六郎左衛門時能が、僅二十三人にて篭った平城成」とある。江戸期には商人たちの港会所が、明治期は郡役所が置かれた。古来より三国湊の中心地であった。現在は妙海寺西墓地。」とあります。畑時能とは南朝方の武将である新田義貞の弟脇屋義助の家臣で、結果的には北朝方である足利軍によって攻められ落城し、その後廃城になったと思われます。
三国湊城:上空画像
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