小浜西組(町人町・茶屋町・寺町)

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写  真 備  考
小浜西組(丹後街道)
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【小浜城】−慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際、大津城(滋賀県大津市)の攻防戦で西軍を引き付けた功により京極高次が若狭国を与えられ小浜藩を立藩しました。高次は中世の山城で若狭国の守護所が置かれた後瀬山城に入りましたが、戦の危険性が少なくなった江戸時代では行政面で不便だった事から慶長6年(1601)から現在地に小浜城の築城を開始しました。寛永11年(1634)に2代藩主京極忠高が松江藩(島根県松江市)に移封になった為、京極時代では小浜城の完成には至らず、結果的に酒井忠勝が藩主が勤めていた寛永19年(1641)に完成しています。小浜城は北川と南川を天然の外堀とした平城で、城下町からは若狭街道(鯖街道)と丹後街道が基点となり、物資の集積場として経済的にも発展しました。又、北前船の寄港地でもあり、小浜湊で陸揚げされた海産物や蝦夷地、日本海側の名産は京都や大坂などの大消費地に運ばれ、小浜はその中継地となりました。

【丹後街道】丹後街道の前身は若狭国府と、丹後国府とを結ぶ官道で、特に古代の国際港だった敦賀湊付近には松原駅が設置され重要視されました。松原駅には高麗国や渤海国の使節を持成す施設である松原客館が付設され国際舞台の一翼を担いました。中世以降は軍事的な活用が多く、江戸時代には小浜藩の参勤交代の経路としても利用され福井藩との藩境である佐柿宿には関所と藩主の宿所でもあった佐柿町奉行所が、丹後国との国境には蒜畠関所が設置されました。

【小浜西組】小浜西組は小浜城の城下町の一部で貞享元年(1684)に人口増加などを理由に改めて現在に近い町割が行われ、東、中、西の3組に区分され当地区を西組としました。西組には大きく商家町と茶屋街、寺町の3つの要素があり、それぞれ住み分けられ、商家町には丹波街道が通り昼間には多くの人通りがあり、茶屋街は遊郭として夜の顔がありました。寺町には小浜藩の藩主酒井家の菩提寺である空印寺(人魚の肉を食べて不死の体となった八百比丘尼が800歳まで住んだと伝わる八百比丘尼入定の洞穴が境内にあります。酒井家墓所は小浜市指定史跡)や常高院(お初:浅井三姉妹で初代小浜藩主京極高次正室)の菩提寺である常高寺(常高院墓所は小浜市指定史跡)、足利尊氏の命を受け諸国に建立した若狭国安国寺の後身である高成寺(木造千手観音立像と紙本墨書印可状は国指定重要文化財)などの名刹が境内を構えました。小浜西組は明治21年(1888)の大火で大きなな被害を受けましたが、その後に再建された町屋建築(主に木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入)をはじめ、元料亭酔月などの茶屋建築(主に木造2階建、正面開口部は千本格子、2階にはベランダ風の縁や出窓)や寺院、神社、洋風建築などが存在し現在でも古い町並みが残され平成20年(2008)に名称「小浜市小浜西組伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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