朝倉義景墓(大野市)概要: 朝倉義景墓は大野市泉町に位置しています。天正元年(1573)、織田信長の近江侵攻により朝倉義景(朝倉家11代当主)も全軍を率いて応戦しますが、既に求心力が失われ有力家臣が協力を拒否し、さらに指揮系統が脆弱で士気も上がらなかった為、拠点である大嶽砦が落城、田部山の戦い、刀根坂の戦いで大敗し多くの家臣を失いました。
義景は僅か数人の側近に護られながら一乗谷に帰還するものの、一乗谷に予備兵力として残していた部隊も悉く離散し、その後出陣要請をかけるものの、殆ど集まりませんでした。
そこで義景は一族である朝倉景鏡が守る大野の地に落ち延び洞雲寺で再起を図ろうと東雲寺に入ると、信長に応じた平泉寺(現在の平泉寺白山神社)に襲撃され、景鏡は義景を六坊賢松寺に招きましたが、その景鏡も既に信長と内通しており、境内を景鏡軍の軍勢で取り囲みました。
事態を把握した義景は、「七転八倒 四十年中 無他無目 四大本空」、「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」の辞世の句を残して、同年8月20日に自刃、享年41歳、戒名「松雲院殿太球宗光大居士」、景鏡は義景の首を信長に差出降伏が認められ大野郡の所領が安堵されました。
現在の墓(五輪塔)は寛政12年(1800)朝倉家の後裔とされる花倉家、松田与惣左衛門が曹源寺に建立し、文政5年(1822)にこの地に移転したものです。朝倉義景墓の周りには殉死した高橋景倍と鳥居景近、生母の高徳院(高徳院殿昌壽宗繁大姉)、室の祥順院(祥順院月峰清玉大姉)、次男の愛王丸(華林宗春大居士)の墓があり周囲が公園として整備されています。朝倉義景墓は昭和33年(1958)に大野市指定史跡に指定されます。
朝倉義景墓:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-福井県-出版元:株式会社人文社
・ 日本の城下町6北陸-出版元:株式会社ぎょうせい
・ 現地案内板-大野市文化財保護委員会・大野市教育委員会・大野市
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