福井県の伝統的・町並み1

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項     目 場  所 備  考
・熊川宿 ・福井県
・三方上中郡
・若狭町
熊川宿は中世は熊川城の城下町、江戸時代以降は鯖街道(若狭街道)の宿場町として発展した町です。鯖街道(若狭街道)は日本海と京都を結ぶ街道で、若狭近海で水揚げされる鯖の一夜干しが大消費地だった京都に丁度食べ頃な内に運ばれ大人気となった事から、一夜干し鯖を取り扱う多くの人々が行き交い、何時しか鯖街道とも呼ばれるようになりました。熊川の地は中世、長く当地を支配した沼田氏が熊川城を築き、その城下町として整備され、戦国時代後期まで存続しました。しかし、沼田氏が従った武田氏が没落し、織田氏や細川氏に従った為、この地を離れました。江戸時代に入ると、舟運の拠点として多くの物資の集積場、中継地として経済的に発展し、小浜藩の出先機関を設けて周辺の行政的な中心地にもなり、若狭国(福井県)と近江国(滋賀県)の国境に近かった事から番所も設けられました。現在でも良好な町家建築が軒を連ね、当時の宿場町を彷彿させる伝統的な町並みが残されている事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

熊川宿:町並み・写真
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・小浜西組 ・福井県
・小浜市
小浜の地は古くから若狭国の中心だった地域で若狭国府や、若狭国分寺(木造薬師如来坐像は国指定重要文化財)、若狭国一之宮の若狭彦神社(本殿・神門・随身門は福井県指定文化財)や若狭国二之宮若狭姫神社(本殿・神門・随身門は福井県指定文化財)が設けられました。中世に入ると後瀬山城に守護所が置かれ引き続き武田家などの守護が居城として利用しました。江戸時代に入ると京極高次が入封し小浜藩を立藩、後瀬山城は山城で堅城だったものの、平和な時代には無用な長物となった為、平地に小浜城を築城しました。小浜西組は、小浜城の城下町、丹後街道、鯖街道(若狭街道)の起点として町割された町で、幾度の変遷を経て現在に近い形となり、大きく丹後街道沿いの町人町、山沿いの寺町、遊郭だった茶屋町に分かれていました。小浜西組は現在でも伝統的で良好な町並みが残されており国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
小浜西組:町並み・写真
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・今庄宿 ・福井県
南越前町
当地は古くからの交通の要衝で、古代の官道だった北陸道の「鹿蒜駅」が置かれたとされ(明確な場所は特定されていません)、周辺には歴史ある神社や寺院などが点在しています。平安時代末期の源平合戦でも激戦地の1つとなり、軍事的にも重要視されていた事が窺えます。戦国時代に入ると織田家の重臣だった柴田勝家が北ノ庄城(福井県福井市)に配された為、織田信長の居城である安土城(滋賀県近江八幡市安土町)を結ぶ街道が整備されました。江戸時代に入ると、北陸道(北国街道)福井藩など北陸地方の大名の参勤交代の経路となった為、今庄宿も宿場町として整備され本陣や脇本陣は大名の宿泊や休息で利用されました。江戸時代末期には水戸天狗党も北陸道(北国街道)を利用し今庄宿を宿所とした為、京藤甚五郎家には当時の逸話などが伝わっています。現在でも良好な町家(町家)建築が軒を連ね宿場町らしい伝統的な町並みが残されています。
今庄宿:町並み・写真
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