楠正成:墓塔

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【 菩提者 】 楠木正成の出生は不詳ですが河内を本拠とする土豪されます。伝承によると、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕運動である元弘の乱に失敗し笠置山に立て籠もった際、霊夢に神の遣いと思われる童子が出現し大木の南側に置かれた立派な椅子に案内された事から「楠」の字が幸運を招くとして楠木正成を召還したと伝えられています。正成は後醍醐天皇の期待に応え「赤坂城の戦い」や「千早城の戦い」で僅かな手勢で幕府の大軍を迎え撃ち大功を挙げています。鎌倉の幕府崩壊には足利尊氏や新田義貞が直接的な攻撃によるものでしたが、正成は常に後醍醐天皇の近くで補佐していた事からその後に成立した建武の新政でも河内国、和泉国の2国の守護職に就任するなど重用されました。しかし、建武の新政は天皇中心に多くの公家や寺院が重用、倒幕に関わった武士は軽視され恩賞も満足いくものではなかった為、足利尊氏を中心に反対派の武士達が反乱を起しました。当初は新田義貞、楠木正成、北畠顕家などの活躍により有利に展開していましたが、九州に逃れた尊氏は戦力を整え京都に侵攻、正成は僅かな手勢をもって迎え撃ちましたが「湊川の戦い」に敗れ自刃しています(一説には正成軍800人、尊氏軍20万とも)。

平泉寺白山神社は養老元年(717)、白山を開山した修験道の高僧として知られる泰澄大師により創建された寺院です。古くから神仏習合していましたが、仏教色が強く平泉寺と呼ばれ応徳元年(1084)には比叡山延暦寺の末寺となり最盛期には寺領9万石を領して周辺の大名にも大きな存在となっていました。多くの僧兵を擁していた為、源平の合戦や、南北朝の動乱、一向一揆などにも影響力があり平泉寺白山神社も度々兵火により大きな被害を受けています。白山信仰が広がると、平泉寺白山神社(越前馬場)は白山長滝神社(岐阜県郡上市:美濃馬場)、白山比盗_社(石川県白山市:加賀馬場)と共に白山三馬場に数えられ繁栄しました。戦国時代の一向一揆との戦いに敗れ衰微し、江戸時代に再興されるも往時には至りませんでした。明治時代に神仏分離令により平泉寺は廃寺となり、社号を「平泉寺白山神社」に改め県社に列しています。

楠木正成公墓塔は延元元年(1336)に平泉寺の宗徒で楠木正成の弟、又は甥とされる恵秀律師の霊夢に正成に不幸がある事の虫の知らせがあり、数日後本当に正成の自刃の報が入った事から平泉寺白山神社の境内に石造五重墓塔を建立し正成の霊を弔ったと伝えられています。

【 寺  号 】 平泉白山神社
【 所在地 】 福井県勝山市平泉寺町平泉寺
【 創建年 】 延元元年(1336)、石柵と参道は寛文8年(1668)に福井藩4代藩主松平光通が寄進
【 開  山 】
【 開  基 】
【 山  号 】
【 宗  派 】
【 本  尊 】
【 備  考 】 白山平泉寺境内全体は「白山平泉寺旧境内」として国指定史跡
福井県大名菩提寺
丸岡藩本多家有馬直純・國姫丸岡藩有馬家新田義貞福井藩松平家松平吉品柴田勝家越前朝倉家朝倉孝景勝山藩小笠原家楠正成大野藩土井家朝倉義景・高徳院・祥順院・愛王丸の墓碑間部家大谷吉継酒井家お初武田信親多田満仲武田元光府中松平家沼田家
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