須波阿須疑神社(池田町)概要: 須波阿須疑神社は福井県今立郡池田町稲荷に鎮座している神社です。須波阿須疑神社の創建は武烈天皇の御代(第25代天皇・在位:499〜506年)、諏訪大社(信濃国一之宮)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。
その後、池田郷の地元神である大野手比賣命(あづき神:小豆の生産神)を合祀し、さらに霊亀2(716)に倉稻魂命(稲荷神)を合祀したとされます。
天長年間(824〜834年)には高僧として知られる弘法大師空海が平泉寺白山神社を参籠しにきた際、須波阿須疑神社にも訪れ、自ら木像を彫刻し祭ったと伝えられています(木像は明治時代の神仏分離令により信徒の邸宅に遷されています)。
【 須波阿須疑神社と領主 】-延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている越前国伊万太千郡の条に須波阿須疑神社三座の論社でこれが正しければ当時から格式の高い神社として中央にも認識されていた事になります(式内社須波阿須疑神社は越前市南中町に鎮座している須波阿津疑神社も論社となています)。
池田郷48ヶ村の惣社として信仰を広め、歴代領主にも崇敬され天延年間(973〜976年)には斉藤加賀守吉信が再興し、源平合戦の際の嘉応2年(1170)には木曽義仲(源義仲)に呼応した平泉寺白山神社の長吏斎明が戦勝祈願を行っています。
歴史が感じられる須波阿須疑神社本殿
中世の戦乱により一時衰退しましたがその後は越前国守護で一乗谷を本拠とする朝倉家が崇敬庇護し、延徳3年(1491)には朝倉貞景が家臣である池田勘解由左衛門に命じて鐘楼堂、阿弥陀堂、輪蔵、三曾塔など七堂伽藍を整備させました(神仏習合し仏教色が強かった事が窺えます)。
天正元年(1573)、織田信長の越前攻めにより朝倉家が没落すると越前国は大混乱に陥り、天正2年(1574)には一向一揆衆が台頭するようになり、須波阿須疑神社や平泉寺白山神社などは兵火により焼失し衰退を余儀なくされました(須波阿須疑神社の本殿はその兵火で唯一逃れた建物で国指定重要文化財に指定されています)。
さらに庇護者である朝倉氏も織田信長の越前侵攻により滅亡した為、再び衰退します。文禄4年(1595)から再興され慶長5年(1600)には拝殿が再建、その後の領主からは修理改修する毎に白銀の寄付を受けています。明治6年(1873)に県社に列し、明治41年(1908)に神僕幣吊料を供進する神社に指定されています。
スピリチュアルな雰囲気が感じられる須波阿須疑神社の境内
【 須波阿須疑神社の社殿 】-現在の須波阿須疑神社本殿は延徳3年(1491)に建てられたもので三間社流造(桁行3間:4.88m、梁間2間:3.15m)、檜皮葺、向拝3間、福井県最古の神社本殿建築として大変貴重な事から昭和38年(1963)に国指定重要文化財(旧国宝)に指定されています。
拝殿は元禄2年(1689)に建てられたもので、入母屋、銅板葺(元茅葺)、平入、桁行8間、梁間5間半、外壁は素木板張り、拝殿と同時に能舞台にもなっていて大正5年(1917)まではここで能が奉納されていました。須波阿須疑神社拝殿は江戸時代初期の社殿建築の遺構として貴重な事から昭和52年(1982)に池田町指定文化財に指定されています。
神門(神社山門・赤山門)は嘉永3年(1850)に建てられたもので三間一戸、切妻、銅板葺(元茅葺)、八脚楼門形式、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、木部は弁柄色、神仏習合の名残が見られます。須波阿須疑神社神門は江戸時代後期の楼門建築の遺構として貴重な事から昭和52年(1982)に池田町指定文化財に指定されています。
【 須波阿須疑神社の文化財 】-須波阿須疑神社の社宝である能面「天神」は元亀2年(1571)に野尻出身の千代熊丸が奉納したもので国の重要美術品に選定され、「中年の女」は室町時代に制作されたもので、桧材、白肉色、面長20.7p、面幅14.6p、厚さ6.9p、昭和49年(1974)に福井県指定文化財に指定ています。
御神木である「稲荷の大杉」は推定樹齢500年、樹高40m、目通り幹周8.6m、根回り11.7m、北陸地方を代表する大木で貴重な事から昭和39年(1964)に福井県指定天然記念物に指定されています。又、境内近くには須波阿須疑神社12軒衆の1家とされる堀口家の住宅が現存し国指定重要文化財に指定されています。祭神:倉稲魂命、大野手比賣命、建御名方命、大田命、大己貴命。
池田町:神社・仏閣・再生リスト
須波阿須疑神社:上空画像
|