・熊川陣屋は江戸時代に小浜藩の藩主となった京極高次によって設けられたもので、当初は藩主の宿泊や休憩施設として茶屋と呼ばれていましたが、その後、熊川陣屋に名称が改められています。
熊川の地は若狭国と近江国との国境に隣接する軍事的要衝で、北側舟運の最終川湊であった為、物流の拠点として経済的にも重要視されました。
中世は沼田氏が熊川城を築いて拠点としていましたが、永禄12年に若狭国守護職の武田家の被官である松宮玄蕃に攻められ落城の憂き目にあっています。
天正12年に丹羽長秀が領主になると熊川城は廃城になりましたが、天正15年に入封した浅野長政は宿場町として熊川宿を整備し、諸役免除を発布し町の発展と保護に務めています。
酒井忠勝が小浜藩主になると陣屋には藩の町奉行所が設けられ、当地地域の行政、四方の中心的な役割を持ちました。
旧若狭街道を隔てた反対側には陣屋に務める町奉行配下に足軽達の住居である長屋があった事から、陣屋と長屋を結んだ路地を「長屋道」と読んでいました。
日本海の西廻り航路が開削されると、小浜湊と京都を結ぶ若狭街道も活況を呈し、最盛期には年間2万駄の通行があり、陣屋とは別に小浜藩の御蔵が12棟設けられ、周辺にある上中郡43ヶ村、三方郡18ヶ村の年貢米3万俵が納められ、現在の松木神社境内にあった御蔵屋敷によって管理されていました。
明治4年の廃藩置県により小浜藩が廃藩になると陣屋も廃止となり小学校の敷地として利用されました。
福井県:城郭・再生リスト
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