・桑原館が何時頃築かれたのかは判りませんが、当地は長良時代に東大寺領桑原荘が広がっていた所で、荘官職を担っていたと思われる桑原氏が、東大寺の支配下を離れた後も引き続き、当地の支配層(国人領主)として影響力を行使し続けたと思われます。
朝倉氏が台頭すると桑原氏はその支配下に入り、応仁の乱の兵火で京都が荒廃すると、文明11年に清水寺の再建の為に記された勧進奉加帳には朝倉家の家臣団51名の名を連ねており、その中には桑原次郎右衛門尉貞久の名を見る事が出来ます。
天文24年には朝倉玄蕃助景連の配下にあり、加賀侵攻の一翼を担っています。
桑原館は居館といっても、一般的な居館とは異なり、南北方向が約300m、東西方向約200mと広大で、周囲を土塁と堀で囲い、郭内には集落が丸ごと取り込んでいたと推定されています。
桑原氏の居館部分は北西隅の西出垣内と呼ばれた所とされ、概ね70m四方でこちらも土塁で囲われ、南西隅にも久保屋敷と呼ばれる郭があり、水堀で囲われていたようで、東側に流れている竹田川が天然の外堀として想定していたと思われます。
現在は、堀の多くは埋め立てられたものの土塁の一部が散見されます。
福井県:城郭・再生リスト
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