・溝江館が何時頃築かれたのかは判りませんが、奈良時代に成立したと見られる東大寺の荘園「溝江荘」に関わりがあったとされる溝江氏の居館として長く利用されました。
溝江荘は平安時代中期頃になると興福寺の荘園である河口荘に含まれ、土地は「溝江郷」と呼ばれました。
室町時代に入り越前朝倉氏が台頭すると朝倉家に従ったようで、「大乗院寺院雑事記」には明応5年に溝江郷の代官として「溝江殿朝倉党」と記されており、既に朝倉家の家臣だった事が窺えます。
溝江氏の出自は不詳で、溝江荘や溝江郷に関わった土豪や、国人領主だったとも考えられる一方で、元々朝倉家の一族又は家臣で、溝江郷が朝倉家の支配下に入ってから、当地に配されたとも考えられます。
永正3年に九頭竜川流域で行われた朝倉氏と加賀一向一揆との戦いに参戦し、弘治元年に行われた加賀一向一揆衆の討伐戦でも大功を挙げています。
永禄10年に朝倉家に従っていたはずの堀江氏が一揆衆を後ろ盾にして謀反を起したとの一報を受け、朝倉義景はその討伐に魚住備中守景固と山崎長門守吉家を派兵、その際、溝江館が拠点として利用されています。
織田信長の越前侵攻が本格化すると早くから織田家と通じていたと見られ、天正元年に朝倉義景から再三の出陣要請も固辞し、一乗谷が落ち朝倉家滅亡後には逆に織田信長から加増されています。
しかし、天正2年に織田軍の主力が越前から引き上げていた事もあり、溝江館は加賀一向一揆衆2万の宗徒に取り囲まれ、落城、当時の城主である溝江長逸はじめ、父親である溝江景逸、弟で妙隆寺の住職だった辨栄等一族30余人は自刃して果てています。
密かに逃れた長逸の嫡男溝江長氏はその後、織田信長に仕えて、天正10年には魚津城の戦いに参陣しています。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、慶長3年には北ノ庄城の城主小早川秀秋の与力大名として1万773石が安堵され大名家として復権を果たしています。
しかし、跡を継いだ溝江長晴は慶長5年の関ヶ原合戦で西軍として行動した為、改易となり、後裔は彦根藩主井伊家の家臣となっています。
溝江館は東西約100m、南北約100mの単郭の居館と推定され、明治時代までは堀や土塁が確認されていたそうです。
溝江館の跡地は貴重な事から昭和58年3月19日に、あわら市指定史跡に指定されています。
福井県:城郭・再生リスト
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