北の庄城(福井市)概要: 北の庄城の築城年は不詳ですが当時は朝倉氏が本拠とした一乗谷の支城的存在で一族である朝倉頼景が居館を築いたのが始まりと伝えられています。文明3年(1471)に朝倉孝景が一乗谷に本拠を移した事から、一乗谷から見て北方の守りとして重要視されたと思われます。
天正元年(1573)、織田信長の越前侵攻により一乗谷城が落城し朝倉氏が滅亡すると、当地も織田家の支配下に入り天正3年(1575)に越前の一向一揆が平定されると頼景居館跡地を利用して信長自ら縄張を行い北の庄城が築かれ北国方面軍団長となった柴田勝家に預けられました(勝家が縄張りしたとも)。
勝家は越前8郡49万石の領主となり、越後、越中を領する上杉謙信に備える為、北の庄城を軍事的拠点としてさらなる整備を推し進め天正9年(1581)に北の庄城に訪れた宣教師ルイス・フロイスは織田信長が築いた安土城(滋賀県安土町)にも匹敵する壮大な城だったと本国に報告しています。
北の庄城だけでなく城下町の家々も石葺(多分瓦葺?)だったとされ統一した屋根の色が北の庄城をより一層美しく見えたとされ、安土城が7層の天守閣なのに対し北の庄城は9層の天守閣として記載されています。
天正10年(1582)、明智光秀の本能寺の変により織田信長が自刃に追い込まれると、羽柴秀吉が台頭し織田家の筆頭家老だった柴田勝家との跡目争いが激化、天正11年(1583)の賎ケ嶽の戦いで雌雄が決せられます。勝家が大敗すると、北の庄城に篭城するも24日目に最後に自ら城に火を掛け落城、9層の天守閣も焼失し、信長の妹で正室のお市の方と共に自害します。
その後、北の庄城には秀吉に従った丹羽長秀(天正11〜13年、石高:123万石)をはじめ、堀秀政(天正13年〜慶長3年、石高:18万石)、小早川秀秋(慶長3〜4年、石高:15万石)、青木一矩(慶長4〜5年、石高:20万石)と城主が代わります。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで青木一矩が西軍に与した為に改易となり、変わって結城秀康(徳川家康次男)が67万石の越前の領主となり、秀康から2代藩主松平忠直まで11年がかりの天下普請で大改修し後の福井城を築きます。
福井城と北の庄城は城域で重なる部分が多いと言われていますが、北の庄城の遺構は殆ど見られず事実上消滅しました。
現在、北の庄城本丸の一部とされる場所には柴田神社が建立され、堀や石垣、北の庄城のものと思われる鬼瓦、礎石の1部、九十九橋の石柱などが展示されされるなど柴田公園として整備、 平成19年(2007)には「日本の歴史公園100選」にも選定されています。
北の庄城:上空画像
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