【 概 要 】−松平忠直は文禄4年(1595)、結城秀康(徳川家康の2男、後の福井藩初代藩主)と清涼院(中川一元の娘)との子供として生まれました。慶長12年(1607)、秀康の死去に伴い、松平家の家督を継ぎ、福井藩2代藩主に就任しています。慶長16年(1611)に2代将軍徳川秀忠の娘である勝姫を正室に迎え盤石な基盤が築かれたと思われましたが、慶長17年(1612)と慶長18年(1613)に御家騒動が発生し忠直は幼少を理由に許されたものの多くの家臣が粛清されています。元和元年(1615)に発生した大坂夏の陣では1万5千の兵を率いて参陣、大坂方の主力である真田幸村隊を破り、家臣の一人が幸村の首級を挙げています。忠直隊は大坂城にも一番乗りを果たし一説には3650人に及ぶ兵を討ち取ったとされ、石高も大幅に加増される事が予想されましたが、全く相手にされませんでした。
その後も鳥羽野の開拓事業の継続や、元和4年(1618)には北陸道の整備、街道沿いに集落形成など領内整備に尽力しています(鳥羽野周辺の人々は忠直を恩人として称え、死後は鳥羽八幡神社や琵琶神社の祭神として信仰の対象とし、長久寺境内には墓碑が建立されています)。忠直は将軍家からの不遇の扱いにより体調を崩したようで元和7年(1621)には江戸の参勤交代が出来なくなり、夫婦仲も悪くなりました。元和9年(1623)、忠直は幕府から隠居が命ぜられると、全く心覚えが無い為当初は拒みましたが最後は生母の説得により隠居に応じました(当初は忠直が幕府に対して反乱すると警戒され密かに各地の有力藩に出兵が要請されたようです)。
松平忠直が隠居した事で本藩である福井藩は50万石で結城秀康の次男松平忠昌、大野藩(大野城)5万石には秀康の3男松平直政、勝山藩(勝山城)3万石には秀康の5男松平直基、木本藩2万5千石には木本藩には秀康の6男松平直良、丸岡藩(丸岡城)4万6千石には附家老の本多成重がそれぞれ配されています。忠直は出家すると一伯と名乗り、府内藩(大分県大分市)に謹慎処分となっています。福井から豊後に向かう途中、暫く氣比神宮(福井県敦賀市)に滞在したとされ、その際、永賞寺に結城秀康の菩提寺である孝顕寺から三陽和尚を招き秀康の法要を行ったと伝えられています。慶安3年(1650)死去、享年56歳、戒名:西巌院殿前越前太守源三位相公相誉蓮友大居士。
松平忠直は社寺の保護を行い慶長18年(1613)には宝慶寺(福井県大野市)に寺領50石を寄進、粟生寺(福井県越前市)の寺領安堵、慶長19年(1614)には氣比神宮(福井県敦賀市)に大太刀具足衣を奉納し炊殿を造営、元和7年(1621)には大湊神社(福井県坂井市)の社殿(福井県指定文化財)を再建、元和9年(1623)には大塩八幡宮(福井県越前市)に社領20石を寄進、龍泉寺(福井県越前市)に寺領50石を安堵、西福寺(福井県敦賀市)に北ノ庄城(後の福井城) にあった鬱金桜を奉納しています。
|