旧増尾家住宅(南越前町板取)

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板取宿(北国街道)・旧増尾家住宅
【 旧増尾家住宅 】−増尾家は北国街道の宿場町である板取宿で屋号「米屋」を掲げ旅籠を営んでいた家柄で、明治時代に入り街道制度が廃止となり、板取宿が宿場町として機能しなくなると養蚕農家に転業し、家屋の改築が行われ現在見られるような外観になったと思われます。現在の旧増尾家主屋は江戸時代後期の文政6年(1823)頃に旅籠として建てられ、明治期に屋根裏部屋を養蚕用に改築した建物で、木造2階建て、入母屋造、茅葺、妻入、間口4間、奥行6.5間、建築面積111.32u、正面は2階が養蚕の作業場となっていた為に採光と通風が出来るように屋根の一部が切り落とし開口部を設けた兜造りとなっています。外壁は真壁造り、土壁鏝押え、腰部は縦板張、正面は半間程の下屋庇(桟瓦葺き)があり、その下は雪害を防ぐため、横板が嵌め込めるようになっています。間取りは1階正面は土間、その奥は板間と畳間が2列に配されている「2列縦型間取り」が採用されています。旧増尾家住宅主屋は板取宿の町並みの景観に大きく寄与し、江戸時代後期の旅籠建築の遺構として貴重な事から国登録有形文化財に登録されています。

【 板取宿 】−板取宿は麓の今庄宿から約10キロ、山頂の栃の木峠まで約5キロに位置し、集落的な成立年は不詳ですが戦国時代の永正14年(1517)9月27日には朝倉太郎左衛門、永禄11年(1568)7月17日には足利義昭が板取宿を通過した事が記録に残されています(足利義昭は15代将軍に就任を画策しましたが抵抗勢力から逃れる為、永禄9年(1566)に一端、妹婿である武田義統の若狭に逃れ、同年、協力者である越前国守護職の朝倉義景の本拠である一乗谷に入り、永禄11年(1568)に明智光秀の仲介により織田信長の下に移っている事から、この移動の際に板取宿を通過したと思われます)。その後、織田信長の侵攻に伴い、一向一揆衆が板取宿周辺に城を構え応戦し、信長の2度の越後攻めの帰国の際には板取宿を通過して居城である岐阜城(岐阜県岐阜市)に帰還しています。越前攻めが完遂し、北の庄城(福井県福井市)に織田家重臣柴田勝家が入るようになると、新たに信長の居城となった安土城(滋賀県近江八幡市安土町)との連絡道の開削が急務となり、板取宿も整備されたと思われます。江戸時代に入り北国街道が開削されると宿場町と整備され、福井藩の番所が設けられるなど重要視されました。現在は往時の繁栄は失われましたが、上記の旧増田家住宅など4棟の茅葺屋根の古民家が残され、情緒ある町並みを見る事が出来ます。

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