一乗谷朝倉氏遺跡(歴史)概要: 一乗谷は古くから朝倉氏の本拠だった場所で、南北朝の時代に既に存在していました。当初の朝倉家は越後の一部を支配する土豪でしたが越後国の守護職斯波氏に仕える事で台頭し有力家臣という立場を得ていました。
7代当主朝倉孝景(敏景)は守護代である甲斐氏に付く事で反斯波氏方をまとめ上げ、甲斐氏の没落と共に台頭、さらに応仁の乱、越前平定戦で斯波氏を破り事実上越前国を手中に入れました。
文明3年(1471)、孝景は本格的に一乗谷の開発を行い、文明年間(1469〜1486年)には家臣達が一乗谷城の城下に集められ越前国の政治、経済、軍事の中心的な都市として発展しました。
一乗谷は比較的京都から近い事もあり、応仁の乱が起きると戦乱を避け多くの貴族や高僧、学者、文人、商人などが集まり一大文化圏が形成され、最盛期には人口1万人を超えたとも云われています。
10代孝景、11代義景の時代に全盛期を迎え、永禄10年(1567)には室町幕府最後の将軍となった足利義昭(当時は義秋)が義景を頼り永禄11年(1568)まで一乗谷の安養寺で匿われています。
義昭は盛んに義景の上洛を促しますが積極的でなかった事などから見限り織田信長を頼り岐阜へ赴き、信長と不和になると再び義景を誘い信長包囲網を形成します。
歴史が感じられる一乗谷朝倉氏遺跡の庭園
元亀4年(1573)、包囲網の一角である武田信玄が死去すると、信長は越前侵攻に主力を差し向けた為、朝倉家の多くの家臣が離反、刀根坂の戦いで敗れると義景は一乗谷を放棄し一族である朝倉景鏡が守る大野の地に落ち延びました。一乗谷は信長の軍勢の焼き討ちによりそのほとんどが灰燼に帰し、義景も景鏡の裏切りにより追い詰められ自刃しました。
その後、越前国を任されたのは朝倉家の家臣ながら逸早く信長に取り入った前波吉継で、荒廃した一乗谷に館を構えましたが、当時は朝倉家に思いを寄せる旧臣や領民が多く一揆が多発しました。天正3年(1575)、3万3千人とも云われる一揆勢が一乗谷を埋め尽くし吉継は討死、再び信長に介入を許すと一揆は制圧され完全に織田領に組み込まれました。
信長の家臣である柴田勝家は一乗谷を放棄し新たに北の庄城を築き越前の政庁を移し、江戸時代の福井藩もそれを踏襲した為、一乗谷はほとんど開発が行われず、奇跡的に遺跡として残されました(寛文8年:1668年に4代藩主松平光通が朝倉義景の墓塔を建立するなど特別な思いはあったと思われます)。
一乗谷は南北約3Km、東西幅約500mの狭小な谷底平野で南側には上城戸、北側には下城戸と呼ばれる、大きな土塁と堀で外部から遮断し、一乗城山の山頂付近には一乗谷城が構えられ、麓には朝倉氏代々の居館が築城されました。
一乗谷朝倉氏遺跡は昭和46年(1971)に一乗谷城を含む278haが国指定特別史跡に指定され、平成3年(1991)に諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、朝倉義景館跡庭園、南陽寺跡庭園が国指定特別名勝に指定されました。現在は武家屋敷の立体復元など観光地として知られ多くの観光客が一乗谷を訪れています。
一乗谷朝倉氏遺跡:上空画像
【 参考:サイト 】
・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・ 公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-福井県-出版元:株式会社人文社
・ 日本史跡大辞典1-出版元:株式会社日本図書センター
・ 発掘が語る日本史3東海・北陸編-出版元:株式会社新人物往来社
・ 日本の名城・古城辞典-出版元:株式会社TBSブリタニカ
・ 日本の城下町6北陸-出版元:株式会社ぎょうせい
・ 現地案内板
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