朝倉義景館跡(一乗谷朝倉氏遺跡)概要: 朝倉家最後の当主となった朝倉義景の居館跡です。山頂に築かれた一乗谷城の直下、 城下町のほぼ中央に位置し、南・北・西側の3方がコの字型に高さ1.5mから3m程の土塁を廻し、その外側に幅約8m、深さ約3mの堀を配置しています。入り口は中門、西門(正門)、北門の3門で北西隅と南西隅に櫓が構えられ、敷地内には常御殿(東西約21.4m、南北約14.2m)を中心に主殿、会所、数奇屋、台所、持仏堂、湯殿、厩等17棟の建物が建ち並び、西方には馬場跡がありました。土塁内側の敷地面積は6425u、上部背後の湯殿を取り込むと約19000uの規模で東南の隅には庭園が配置され、常御殿の中庭には東西9.8m、南北2.8mの花壇が発見され、現在知られている中では日本最古の花壇の遺構とされています。
庭園はその後埋没しましたが昭和43年(1968)の調査で発掘され、華麗な桃山庭園が作庭されていた事が分かりました。構成は諏訪館跡庭園と酷似している事から同年代に作庭されたと推定され、背後の斜面を利用して導水路が設けられ、庭園の池に導かれ浅い園池には比較的に大きく上部が平らな川石が敷き詰められていました。
特に、朝倉家の権威を象徴する為に作庭されたと見られ、庭を囲むように接客用の迎賓館的な建物が配されていました。天正元年(1573)に織田信長の越前侵攻により一乗谷は焼き払われ、義景館も焼失、越前大野に逃れた義景も一族の朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺で自刃し事実上朝倉家は滅亡しています。
慶長4年(1599)、義景館跡に朝倉氏の菩提寺である心月寺が再建、慶長6年(1601)に心月寺が北の庄城の城下に移ると跡地には末寺である松雲院(義景の戒名:松雲院殿太球宗光大居士から寺号が名付けられた。発掘時に心月寺と統合。)が残されます。
正面にある唐門は豊臣秀吉が義景の善提を弔うために寄進したものと伝えられもので(現在の唐門は江戸時代中期に再建)、旧墓地には天正4年(1576)に村人により建立された小祠跡に寛文3年(1663)福井藩4代藩主松平光通によって義景の墓塔が建立されています。
朝倉義景館跡は一乗谷に残る室町文化の影響を色濃く残す庭園文化の一端を成す貴重なものとして平成3年(1991)に国指定特別名勝に指定されています。
朝倉義景館跡:上空画像
唐門を簡単に説明した動画
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