西光寺(福井市)概要: 光明山乗律院西光寺の創建は延徳元年(1489)、一乗谷を本拠として越前に大きな影響力を持った朝倉貞景(朝倉家9代)が家臣である上田兵衛尉盛忠に命じて西教寺(滋賀県大津市坂本)の真盛上人を招いて開山したのが始まりと伝えられています。
真盛上人は伊勢国(現在の三重県)出身で、天台宗の比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)で修行を重ね伝灯法師の地位まで昇格し、西教寺を再興するなど天台宗布教に尽力した高僧として知られていました。
西光寺では真盛上人が説法すると急に大雨となったかと思うと晴れ渡り、空一面が七色に光り輝いたとの伝承が伝えられています。その後、真盛上人は弟子である盛全上人に西光寺の住職を譲り、西教寺に戻る際、悲しんだ信者に対し、自ら自刻像を彫刻し「私の心は永遠にここに留まるだろう」と諭しこの地を去っていったそうです。
朝倉貞景は曹洞宗でしたが西光寺にも帰依し永正13年(1516)には梵鐘を寄進、その後も歴代朝倉家が庇護した事で領内の真盛派の中心的寺院として寺運が隆盛しました。天正元年(1573)、織田信長の越前侵攻により朝倉家が没落すると天正3年(1575)に柴田勝家が北ノ庄城を築き天正4年(1576)に岡保村から城下である現在地に移されました。
伝承によると岡保村から真盛上人木像を動かそうとしても全く動かす事が出来なかった事から移転せず、岡保村にも西光寺が残されたとされ、勝家がその話しを聞くと仏意と悟り自らの菩提寺に指定したと伝えられています。
天正11年(1583)、羽柴秀吉の画策により賤ヶ岳の戦いに敗退した勝家は北ノ庄城に立て籠もりますが、籠城戦でも敗退し北ノ庄城は落城、勝家、お市の方は自刃しています。西光寺の境内には柴田勝家・お市の方の墓碑(慶長年間:1596〜1615年、山中山代の守長俊が建立)や勝家愛用の梅、北ノ庄城礎石など柴田家、朝倉家縁の遺品を数多く所有しています。山号:光明山。院号:乗律院。宗派:天台真盛宗。本尊:阿弥陀如来。
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西光寺:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-福井県-出版元:株式会社人文社
・ 現地案内板-光明山乗律院西光寺
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