柴田勝家:概要

  福井県:歴史・観光・見所福井県:歴史・人物>柴田勝家

概要・歴史・観光・見所
柴田勝家(西光寺)

【 概 要 】−柴田勝家の前半生は不詳で、そもそも柴田家がどの様な家系かも知られていません。ただし、織田信長が成長した頃は既に織田信秀の重臣になっていたとされ、天文20年(1551)に信秀が死去すると信長の弟である織田信行に従っています。当初は織田家宗家の家督を継いだ信長と対立し信行を擁立しましたが、弘治2年(1556)の稲生の戦いで敗れると信行を離反し信長に臣従、行が自刃して果てると正式に家臣として復権しています。その後、信任を得ると戦への参陣が認められ、勝竜寺城の戦いや、長島一向一揆、今堅田の砦の戦い、槙島城の戦い、朝倉義景攻め、浅井長政攻め、高屋城の戦い、長篠の戦いなどで功を挙げ再び重臣として織田家の中心的な武将となりました。

柴田勝家は北陸方面軍総司令官に任ぜられると北ノ庄城(福井県福井市)を居城に兵を進め越中、越前、能登に侵攻し加賀国49万石を領しました。天正5年(1577)の七尾城(石川県七尾市)攻防戦では上杉謙信に遅れを取り七尾城が落城、さらに手取川の戦いで敗北し大きく後退しましたが、天正6年(1578)に謙信が死去すると越後では跡継ぎ争いにより上杉家が弱体化し再び、能登、越中を掌握しました。天正8年(1580)、筆頭家老の佐久間信盛が失脚しすると次席にいた勝家が筆頭家老となり、天正9年(1581)の信長の京都上洛にも随行しています。

天正10年(1582)本能寺の変で信長が自刃した時、勝家は上杉景勝方の魚津城(富山県魚津市)を取り囲んでいた最中で、京に引き返し仇討戦に参加する事が出来ず羽柴秀吉に遅れを取る事になりました。柴田勝家は信長の後継者に信長の3男織田信孝を推していましたが清洲会議では秀吉の画策により信長の嫡男織田信忠の子供である三法師(織田秀信)が擁立され、事実上秀吉が後見人となり立場的にも後塵を拝しました。

秀吉との対立は決定的となり勝家は滝川一益や織田信孝などと共に秀吉に反旗を挙げますが天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで与力だった前田利家の裏切りなどもあり敗退、さらに居城である北ノ庄城で籠城するも攻め込まれ、愛妻お市方(信長の妹)と共に自刃しています。西光寺(福井県福井市)は柴田勝家の菩提寺で境内には勝家とお市方の墓碑が建立されています。

西光寺:写真
柴田勝家と縁がある西光寺 柴田勝家と縁がある西光寺 柴田勝家と縁がある西光寺 柴田勝家と縁がある西光寺
北ノ庄城:写真
柴田勝家と縁がある北の庄城 柴田勝家と縁がある北の庄城 柴田勝家と縁がある北の庄城 柴田勝家と縁がある北の庄城



※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「福井県:歴史・観光・見所」は「福井県の歴史」、「郷土資料辞典−福井県」、「日本の城下町−北陸」、「城郭と城下町−北陸」、「北陸道二」、「パンフレット」、「案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。※プライバシーポリシーはこちらです。