【 概 要 】−有馬直純は天正14年(1586)、キリシタン大名有馬晴信の嫡男として生まれ、自身もキリスト教信者となり洗礼名ミゲルを賜っています。当初は同じキリシタン大名の小西行長の姪マルタを正室とし関が原の戦いでも西軍よりに行動していましたが、西軍不利の情報が届くと東軍に寝返り加藤清正と共に小西行長の宇土城に攻勢をかけ落城させています。戦後は徳川家康の側近として信任を得ていましたが、更なる信任を得る為に慶長15年(1610)マルタと離縁し家康の養女国姫と再婚しました。
国姫は徳川家の重臣本多忠政の長女ですが生母は家康の長男松平信康の次女(熊姫)にあたる人物で、家康から見ると外曾孫となります。特に家康は信康を切腹に追いやった自責の念もあり国姫の行く末を案じたと云われています。
慶長17年(1612)、父有馬晴信が「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」を境に本多正純の重臣岡本大八から旧領復帰という甘い言葉に騙され多額の賄賂を贈った事が明るみに出て、打ち首となる「岡本大八事件」が起こります。本来ならば有馬家は改易、断絶という事案でしたが有馬直純は家康の側近で外曾孫の国姫を正室として迎えていた事で、罪には問われず晴信の旧領を引き継ぎ肥前日野江藩主となっています。
同年、前述の事件を重く見た幕府はキリスト教禁止令を発令すると、直純も有馬家への疑念を晴らすべく自らキリスト教から浄土宗に改宗し、家康が帰依していた幡随意白道上人を招き白道寺を創建し有馬家の菩提寺としました。
有馬直純は領内のキリシタンの弾圧も積極的に行い、異母弟でキリシタンだったフランシスコ8歳とマティアス6歳を殺害し、信者だった家臣を解雇、追放、教会の破却、宣教師の追放、領民の改宗などを行いました。このような急激な変化に対し家臣や領民は反発を強め藩政にも支障をきたした為、直純は幕府に転封を嘆願し慶長19年(1614)、延岡藩5万3千石で移封となりました。移封には多くの家臣が従わず日野江に残ったとされ寛永14年(1637)の島原の乱では彼らが一翼を担い、討伐軍として派遣された直純と戦う事になりました。
寛永18年(1641)、直純は参勤交代の途中で死去、享年56歳、戒名「月光院殿金吾身誉崇出大居士」。後裔が丸岡藩に移封となった為、藩庁となった丸岡城の城下にも白道寺が遷され、境内には有馬直純と國姫の墓碑が建立されています。
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