【 概 要 】−小笠原貞信は寛永8年(1631)、高木貞勝と小笠原信之の娘との子供として生まれました。下総関宿藩(現在の千葉県野田市関宿三軒家)の藩主である小笠原政信の子供は全て女児だった事から、娘の婿養子として甥である貞信を迎え入れました。寛永17年(1640)政信の死去に伴い小笠原家の家督を継ぎ、関宿藩の藩主に就任、同年には美濃高須藩(岐阜県海津市)に移封となっています。承応3年(1654)から明暦元年(1655)、万治2年(1659)から万治3年(1660)、寛文5年(1665)から寛文6年(1666)、寛文11年(1671)から寛文12年(1672)、天和元年(1681)から天和2年(1682)、貞享元年(1684)から貞享2年(1685)、元禄元年(1688)から元禄2年(1689)と、高須藩時代には合計7回の大坂加番を担っています。
さらに元禄4年(1691)に越前勝山藩(福井県勝山市)に移封になってからも元禄5年(1692)から元禄6年(1693)に8回目の大坂加番が行われた事で、藩の財政が逼迫しました。さらに元禄8年(1695)と元禄9年(1696)には災害や凶作により収穫高が激減したにも関わらず増税を課した事から元禄10年(1697)には農民の代表者が勝山藩江戸藩邸に越訴しています。年貢自体の減免は認められなかったものの、年貢納入時期や借用米金の返済、町米問屋の廃止は認められ、農民にも処分が無いなど農民側の勝利に終わっています。
小笠原貞信は社寺の保護も行い元禄15年(1702)には平泉寺白山神社に社領30石を寄進しています。貞信は藩庁として勝山城の築城を目指したものの、城主格が認められず隠居後の宝永5年(1708)にようやく築城が許可されたものの、さらなる財政負担となっています。元禄15年(1702)隠居、正徳4年(1714)死去、享年84歳、戒名:真光院殿鉄梁一玄大居士、小笠原家の菩提寺である開善寺に墓碑が建立されています。
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