【 概 要 】−松平昌明(吉品)は寛永17年(1640)、福井藩3代藩主松平忠昌の5男として生まれました。福井藩は次男の松平光通が継いだ為、昌明には2万5千石が分知され吉江藩を立藩し初代藩主となり吉江陣屋を設けています。光通の代には災害が頻発した上に後継問題から周囲から圧力をかけられ延宝2年(1674)に自殺、遺言により昌明が福井藩5代藩主に就任しています。何故、昌明が選ばれたのか理由が不明であった事から、光通の庶子である松平直堅を押す派閥と、庶兄である松平昌勝を押す派閥がそれぞれ対立し一触即発の事態となり、昌明派は光通の遺言を理由に幕府からも御墨付きをもらい藩主となりましたが、対立した傷は深く不穏な雰囲気が漂い続きました。
松平昌明は昌親に改名し、吉江藩も福井藩に吸収される形で廃藩となり、以後、旧領内は免税など特別待遇を受けました。延宝2年(1676)、僅か2年で昌勝の長男である綱昌に家督を譲り隠居、理由は定かではありませんが後継問題で身の危険を感じたのかも知れません。貞享3年(1686)、綱昌は家臣を理由なく殺害したり、江戸城への登城を怠るなど奇行を度々行うようになり、幕府から発狂を理由に強制隠居の上、50万石から25万石へと半減、徳川家一門としての特別待遇の一部解除などが行われ、幕命により昌親が7代藩主に再任される事になります。
松平昌親は吉品に改名し心機一転すると藩政改革を断行しました。特に石高が半減した為、2千人を超える家臣の人員整理と大胆な俸禄削減を行い、藩札の刷新、「御家御条目」、「御用諸式目」の制定、「紙会所」の設置などを行いました。しかし、度重なる天災による災害や江戸城石垣修復の普請など出費が嵩み財政は悪化しています。宝永7年(1710)、家督を養子として迎えていた昌勝の6男昌邦(吉邦)に譲り隠居。正徳元年(1711)、死去、享年72歳、戒名「探源院殿順譽和祥龍山大居士」。遺体は、吉品が生母である高照院の菩提を弔う為に中興した瑞源寺(福井市)に葬られています。瑞源寺の境内には松平吉品と高照院の墓碑が建立されています。
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