【 概 要 】−本多富正は府中本多家の祖となった人物です。天正14年(1586)からは徳川家康の命により家康の2男結城秀康付けとなります。慶長6年(1601)、関ヶ原の戦いで秀康が上杉景勝を牽制した功により福井藩(福井県福井市)68万石で移封になると、富正は家老として府中城(福井県越前市・旧武生市)3万9千石が与えられます。
慶長12年(1607)に秀康が死去すると殉死が認められず跡を継いだ松平忠直の家老となりましたが、慶長17年(1612)に家臣同士の対立を武力鎮圧する所謂「越前騒動(久世騒動)」が発生し関わった家臣は配流となり、富正には藩政を補佐するように家康と2代将軍徳川秀忠から書状を賜っています。しかし、慶長18年(1613)には再び騒動が起こり、遂に富正が藩政を司るように命じられ事実上藩を指導する立場となり、慶長20年(1615)の大坂の夏陣では大坂城一番に駆けつけた功を挙げています。
藩祖結城秀康が豊臣家に人質に出された事などから、藩内には豊臣方に親近感を持つ者が多かったとされ、藩の意見を徳川方にまとめたのが富正とされます。大坂の陣の論功行賞に不満を抱いた藩主忠直は次第に乱行が目立つようになり、元和7年(1621)に参勤交代を怠り、元和8年(1622)には勝姫(忠直正室)の殺害を画策したり、以前の騒動と同様に武力により家臣の騒動を収めました。
これらにより元和9年(1623)に忠直は府内藩(大分県大分市)へ配流となり、変わって忠直の弟で高田藩(新潟県上越市)の藩主松平忠昌が福井藩主に就任し、富正には4万5千2百石(最終は4万5千石)が安堵されています(幕府から独立した大名へ促されたものの断り家老としての地位に留まったとの逸話が残されています)。
本多富正は家臣でありながら、大名並の石高を領し、格式も大名に準じたとされ当初は江戸に藩邸とは別に上屋敷、下屋敷を賜り(後に返上)、参勤交代や席次が柳の間、日光東照宮(栃木県日光市)や増上寺(東京都港区芝公園)に石灯籠を奉納しています。慶安2年(1649)死去。享年78歳。戒名「普照院殿元覚正円大居士」。菩提は本多家の菩提寺である龍泉寺(越前市)に葬られています。龍泉寺の境内には歴代本多家の墓碑が建立されています。因みに結城秀康の4男で富正の養子になったものの幼少で病死した吉松丸は正覚寺に葬られています。
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