【 概 要 】−松平直基は慶長9年(1604)、結城秀康と品量院(三好長虎の娘)との子供として生まれ、幼少の頃から結城晴朝に養育されています。慶長12年(1607)、秀康が死去すると家督は長兄である松平忠直が継いだものの松平姓を名乗った為、名門である結城姓が失われる事を憂いた晴朝の懇願により直基が名跡を引き継ぎました。直基は名跡を継いだ事で結城家伝来である「御手杵の槍」や「左文字の刀」、「貞宗の刀」などの家宝や、結城家縁の社寺の祭祀を司り、慶長19年(1614)に晴朝が死去すると隠居領だった5千石を相続しています。元和9年(1623)、忠直が将軍徳川家の不快を買い配流処分となり、次兄である松平忠昌が福井藩75万石から50万石分を引き継ぎ、それに伴い寛永元年(1624)旧福井藩領だった勝山領3万石が結城直基に与えられ勝山藩を立藩し初代藩主に就任しています。
直基は藩庁である勝山城の整備拡張や藩都である城下町の町割を積極的に行い、萬嶺晋令尖尭大和尚を招いて結城家の菩提寺である孝顕寺を創建し寺領150石を安堵しています。孝顕寺は結城家の旧領である茨城県結城市や、結城秀康が自らの菩提寺として同号の寺院を福井城の城下にも創建している事から関係性が窺えます。福井の妙国寺からは日然を招いて品量山大蓮山を創建、特に直基の生母である品量院が日蓮宗を帰依した事もあり菩提寺となっています。寛永3年(1626)に松平姓に改めたものの、家紋は旧来の結城家のものを引き継いでます。松平直基は寛永7年(1630)に領内にある平泉白山神社に社領30石を寄進、寛永5年(1628)には森巌寺を創建し寺領100石を寄進しています。
松平直基は寛永12年(1635)1月11日に城下に境内を構えている大蓮寺に対して寺領20石を寄進、同年1月13日に城下の総鎮守である神明神社の別当寺院興福寺へ社領37石1斗が寄進されています。寛永12年(1635)に大野藩5万石に移封(勝山藩には弟である松平直良が入っています)、藩庁である大野城の整備や領内整備が行われ、同年には平泉寺白山神社に対して絵馬を奉納しています。正保元年(1644)に山形藩15万石で移封となり越後国から離れています。
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