平泉寺白山神社(福井県勝山市)概要: 平泉寺白山神社の創建は養老元年(717)、泰澄大師が白山(標高:2702m)を開山した際、当地で神泉を発見すると白山神の化身が出現し「神明遊止の地」との御告げがあった事から聖地と悟り白山神の分霊を勧請し別当寺院として平泉寺を開山したのが始まりと伝えられています。
応徳元年(1084)に比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)の末寺になると次第に寺運が隆盛し、白山信仰の聖地である白山頂上への越前側の登拝口の拠点として名を馳せます。
所謂「白山三馬場」と呼ばれる越前馬場の平泉寺(群馬県勝山市)、加賀馬場の白山本宮(現在の白山比盗_社:石川県白山市)、美濃馬場の長滝寺(現在の白山長滝神社:岐阜県郡上市)の1つとして禅定道の拠点となり最盛期には48社、36堂、6千坊、僧兵8千人、寺領(社領)9万石を有する一大勢力となりました。
源平の合戦では平家方に与し倶利伽羅峠の戦いにも参加、長吏齋明は斬首となりましたが、後に木曽義仲の祈願所となり寺領として藤島七郷を寄進されています。文治3年(1187)には源義経一行が兄である源頼朝から逃れる為、奥州平泉(岩手県平泉町)に下向する途中に平泉寺白山神社に参拝してから安宅関(石川県小松市安宅町)に向ったと伝えられています。
スピリチュアルな雰囲気がある平泉寺白山神社の境内
【 南北朝の動乱と一向一揆 】−南北朝の動乱では境内には南朝の有力武将だった楠木正成の墓碑が境内に建立されているなど当初は南朝方に与していましたが、後に北朝方の越前守護斯波高経に呼応し藤島城に入り南朝方の有力武将だった新田義貞と戦っています。
室町時代は越前守護の朝倉氏(本拠:一乗谷)の祈願所として庇護され社運も隆盛しますが、永禄12(1569)年に朝倉氏と本願寺間で同盟が結ばれた事で関係が悪化、織田信長の越前侵攻にも救援を拒否し朝倉氏滅亡を早めたとも言われています。
天正元年(1573)、朝倉氏が滅亡すると権力の均衡が崩れた事で加賀の一向一揆勢が越前に侵攻、天正2年(1574)一向一揆勢が平泉寺の境内を占拠し、多くの堂宇、寺宝、記録などが兵火により焼失し大きく衰退します。
【 平泉寺白山神社の再興 】−天正11年(1583)に顕海僧正が再興し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が禁制札を付与、慶長6年(1601)には結城秀康が御供田として鎮座地である平泉寺村から200石を寄進、寛永元年(1624)には3代将軍徳川家光が社領200石を安堵、寛永3年(1626)には福井藩3代藩主松平忠昌が100石を寄進、さらに寛永7年(1630)に勝山藩主松平直基が30石を寄進(松平直基は大野藩に移封後の寛永12年:1635年に絵馬を奉納しています)、寛文8年(1668)には福井藩4代藩主松平光通が楠木正成公墓塔の石柵と参道を整備、元禄15年(1702)には勝山藩主小笠原貞信が社領30石を安堵、寛政7年(1795)には福井藩12代藩主松平重富が本殿を造営するなど再び寺運も隆盛しますが、最盛期の10分の1程度で往時に比べると遥かに遠かったそうです。
江戸時代に入ると旧白山三馬場の間に白山信仰の本山争いが激化し、幕府が調停するまでなりましたが、寛文8年(1668)に白山頂上部は幕府の天領となり、頂上本社の祭祀権は平泉寺が獲得しました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、白山神社が独立して平泉寺白山神社となり平泉寺は廃寺となりました。
パワースポットに数えられるの平泉寺白山神社の境内
【 境内・参道 】−境内一帯は昭和10年(1935)に「白山平泉寺城跡」として国指定史跡、平成9年(1997)に追加部分を含めて「白山平泉寺旧境内」として指定名称が改称されています。又、参道は現在でも中世の雰囲気を残す貴重なものとして平成19年(2007)に財団法人古都保存財団等による「美しい日本の歴史的風土百選(白山信仰の拠点 平泉寺)」、平成13年(2001)に環境省による「かおり風景百選(白山神社境内菩提林のスギと蘚苔)」、昭和61年(1986)に建設省(現在の国土交通省)による「日本の道百選(中宮平泉寺参道)」、平成8年(1996)に文化庁による「歴史の道百選(白山禅定道)」に選定されています。
平泉寺白山神社の文化財
・ 旧玄成院庭園−享禄4年−国指定名勝
・ 白山平泉寺旧境内−国指定史跡
・ 平泉寺白山神社参道−菩提樹の中の参道−日本の道百選
・ 白山禅定道−平泉寺白山神社から白山山頂まで−歴史の道百選
・ 平泉寺白山神社境内菩提林の杉と蘚苔−かおり風景百選
・ 平泉寺白山神社境内−白山信仰の拠点−美しい日本の歴史的風土百選
※越前馬場:禅定道−越前国の白山信仰の信者は平泉寺白山神社までは福井城と勝山城を結ぶ勝山街道と、そこから境内まで分岐する間道を利用していたと思われます。
境内から途中までは綺麗な石畳の参道があるものの、そこから白山の山頂までは険しい登拝道が続きます。「三宮社」が禅定道の起点となり、登拝道沿いには「金剣宮」、「稚児堂跡」、「弁ヶ滝」、「法音寺跡」、「伏拝(白山遥拝所)」、「和佐盛平」、「小原峠」、「川上御前社」、「市ノ瀬」、「市ノ瀬神社」などの名所旧跡が点在しています。
平泉寺白山神社:上空画像
※源義経:平泉寺−室町時代に編纂された「義経記」を要約すると、源頼朝に追われ奥州平泉に下向する義経一向は、回り道になる事を知りながら、越前国(現在の福井県)で名立たる平泉寺に是非とも参拝に訪れた境内にある観音堂に着いたそうです。平泉寺では、既に義経が京都から姿を消している事が伝わっている事から、一向に対して疑念を持ち数百人の僧侶で観音堂に押しかけました。
義経の家臣である武蔵坊弁慶が話し合いに及び、私は羽黒山(山形県鶴岡市・現在の出羽三山神社)の山伏で讚岐出身の阿闍梨、少人(稚児※義経の正室:北の方=郷さと御前。女性が山伏である事に疑念を持たれないように説明した。)は酒田次郎殿の子供で金王殿と申す者で羽黒山では有名人であると説明しました。さらに、弁慶は小人は学問は並ぶ者がいない程優秀で、顔姿は比叡山延暦寺や三井寺にもおられず、横笛の腕前も日本一であると誇張しました。
平泉寺の長吏の弟子、和泉美作は弁慶の話に小人は女性でないかと疑いを持ち、それでは横笛を吹いてもらおうとの約束をしました。観音堂に戻った弁慶が事の経緯を説明すると横笛など吹いた事のない北の方(郷さと御前)は困り泣き伏せってしまいました。
そこで弁慶は小人は羽黒山の御坊から道中では笛を吹いてはいけないとの誓約しているので、小人が笛を習っている大和坊という師が同行してるので、是非大和坊の笛をお聞かせしたいと嘆願しました。平泉寺では、師匠と弟子の情と感じ為、これを許し、大和坊にふんした義経が見事な横笛を吹いた為、疑念は晴れたそうです。
「義経記」は源義経の死後、数百年後に書かれたもので、歴史的資料としては価値が薄いのですが、この物語が独り歩きをしてあたかも本当にあったかのような伝説が各地に残されています。
※長吏齋明(斉明)威儀師−平安時代末期の平泉寺の長吏は越前国の有力武士団斎藤家出身の齋明(斉明)と呼ばれる僧侶でした。齋明は元々平家方として行動していましたが、養和元年(1181)に木曽義仲追討の命を受け越前、加賀国に侵攻した平通盛軍の背後を急襲し勝利、寿永2年(1183)には義仲に呼応し火打が城(燧ヶ城跡)に立て籠もっています。
火打が城は当時、北陸地方随一の堅城として知られ、齋明以下6千の兵が立て籠もり、平家軍も攻めあぐねていましたが、事もあろう、齋明は平家方に内通し、火打が城の防御の要である人造湖の弱点を教えました。平家は教わった通りに人造湖を決壊させると容易に攻め落とす事が出来たとされ、齋明は平家に従い加賀国に侵攻しています。しかし、倶利伽羅峠の戦いで平家が大敗、齋明も捕縛され斬首されています。
平泉寺白山神社:周辺駐車場マップ
【 参考:サイト 】
・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・ 公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-福井県-出版元:株式会社人文社
・ 発掘が語る日本史3東海・北陸編-出版元:株式会社新人物往来社
・ 日本史跡大辞典1-出版元:株式会社日本図書センター
・ 日本の城下町6-出版元:株式会社ぎょうせい
・ 現地案内板-平泉寺白山神社
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