【 概 要 】−松平光通は寛永13年(1636)、福井藩3代藩主松平忠昌と道姫(広橋兼賢の娘)との子供として生まれました。正保2年(1645)、忠昌の死去に伴い松平家の家督を継ぎ福井藩4代藩主に就任しています。就任した際、庶兄である松平昌勝に5万石を分知し松岡藩を立藩させ、庶弟である松平昌親(吉品)に2万5千石を分知し吉江藩を立藩させています。当初は幼少だった事から江戸藩邸に住しており、承応2年(1653)に初めてお国入りを果たしています。聡明な藩主だったようで、藩内の様々な法整備を行い朱子学者の伊藤坦庵を招いて学問や文化勃興を奨励しています。
一方、度重なる天災で財政は逼迫し、寛文元年(1661)には幕府を許可を得て藩札である福井寛文札を発行しています。寛文9年(1669)には近隣の村が火元となり城下町、居城である福井城まで類焼し大きな被害を受けています。寛文12年(1672)に福井城は再建を果たしたものの天守閣は設けられず幕府からの借金だけが膨らんでいます。
松平光通は社寺の保護も行い、万治元年(1658)に「新田義貞戦死此所」の碑を建立(現在の藤島神社)、万治2年(1659)には両親と祖先の菩提を弔う為 大愚宗築禅師を招いて松平家の菩提寺となる大安禅寺(福井市)を中興開山、寛文元年(1661)には永平寺(福井県永平寺町)に寺領20石を寄進、寛文3年(1663)には一乗谷朝倉氏遺跡にある朝倉義景館跡に義景の墓塔を建立、寛文8年(1668)には平泉白山神社(福井県勝山市)の境内に設けられた楠木正成公墓塔の石柵と参道を整備しています。
光通は国姫との間に女児を2人設けましたが男児を設ける事が出来ず、事実上の側室である御三の方との間に出来た権蔵(松平直堅)を嫡子としようとしました。ところが、国姫の祖母である高田殿(天崇院勝姫:徳川秀忠の3女)はそれを許さず、国姫との実子の男子に家督を継がせる旨の誓約書を提出させました。しかし、中々男児を得る事が出来ず、実家からのプレッシャーに耐え切れず寛文11年(1671)国姫は自殺、さらに高田藩の恨みを一身に浴びた権蔵(松平直堅)は身の危険を感じ福井藩を出奔しました。
松平光通は正室の自殺、息子の出奔、さらには妻の実家である高田藩からのプレッシャーから心身ともに疲れ果て延宝2年(1674)に自身も自殺しこの世を去っています。享年39歳、戒名:大安院殿賢譽徳智超万大居士、松平家の菩提寺である大安禅寺に墓碑が建立されました。
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