【 概 要 】−大野藩(福井県大野市:本城−大野城)の初代藩主土井利房は2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光の側近として幕府創世記に大きな影響力を行使した土井利勝の4男で自身も奏者番、若年寄、老中などの要職を歴任し、領地だった足利(栃木県足利市)から天和2年(1682)に4万石に加増され大野藩主に就任しています。利房は天和3年(1683)に死去した事から大野藩の実績は少なく、足利領時代に足利学校(国指定史跡)の再興に尽力した事でも知られています。跡を継いだ土井利知は大坂加番や奏者番などの要職に付いたものの、役職による出費や江戸藩邸の火災などにより藩の財政が大きく悪化しています。その後の藩主の時代も財政が好転する事がなく度々一揆が発生するなど不安定な世情が続きました。
土井利忠が7代藩主に就任すると、一大改革が行われ「寅年御国産之御仕法」を発布すると倹約及び地場産品奨励が遂行、さらに面谷鉱山の藩直営、藩校明倫館創設、軍制の近代化などを行いました。又、藩の直営会社である大野屋を開設し、地元特産物の販売や金融を行い全国の主要な都市に支店を設けて販路を広げました。北蝦夷地(樺太)開拓も積極的で、藩船となる大野丸を建造し、幕府からは大野藩の実質的な支配を認めていました。これにより大野藩の財政は飛躍的に向上し多くの借金を返す事が出来ています。
善導寺は土井家の菩提寺で初代利房、2代利知、4代利貞、6代利器、7代利忠、8代利恒の菩提が葬られ墓碑が建立されています。
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