朝倉義景・高徳院・祥順院・愛王丸の墓碑

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概要・歴史・観光・見所
朝倉義景・高徳院・祥順院・愛王丸の墓碑

朝倉義景: 朝倉義景は朝倉家11代当主で大名家としては最後の当主とされる人物です。若年期は朝倉宗滴の補佐されていましたが、室町時代13代将軍足利義輝から篤く信任を得ると名前である「義」の字が与えられ地位が確立されていきました。その後は、若狭や加賀に侵攻し次第に領土も拡張、さらに足利義秋(後の15代将軍足利義昭)を本拠地である一乗谷に迎え入れる事で管領に準じる地位(管領代)を獲得し上洛の機会を窺いましたが、嫡男の阿君丸が急死した事を受けて計画が頓挫しています。これにより足利義昭は義景を見限り、織田信長を頼って上洛を果たし15代将軍に就任しています。

義昭と信長との対立が鮮明化すると、義昭が各策した信長包囲網に参画し永禄13年(1570)の金ヶ崎城(福井県敦賀市)攻防戦では浅井氏を誘い織田軍を挟撃し壊滅寸前まで追い詰めました。ただし、織田信長や徳川家康、羽柴秀吉、明智光秀など有力武将は悉く無事だった為、体制を整えた織田・徳川連合軍に「姉川の戦い」で敗れています。

その後、比叡山延暦寺(滋賀県大津市)を巻き込んで交戦を続けましたが、元亀2年(1571)には比叡山延暦寺が焼き討ちとなり、元亀4年(1573)に信長包囲網の最大勢力で同盟者だった武田信玄が死去すると大きく戦局が織田方に傾きます。

天正元年(1573)、織田軍3万の軍勢が一乗谷に侵攻すると、多くの家臣が離散し、大嶽砦の戦い、田部山の戦い、刀根坂の戦いで連敗を重ね、一乗谷に帰還した後も軍の再編が整わないどころか、好を通じていた平泉寺白山神社にも裏切られました。結局、義景は一乗谷を引き払い、一乗谷は信長の家臣柴田勝家に焼き払われました。義景は朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れましたが、景鏡の裏切りによって退路を絶たれ自刃に追い込まれ、大名家よしての朝倉家は滅亡しました。

高徳院: 高徳院は朝倉義景の生母とされる人物で、若狭守護職5代当主武田元信、又は6代当主武田元光の娘と目され、越前朝倉家10代当主朝倉孝景に嫁いだと推定されています。

祥順院: 祥順院は朝倉義景の正室、又は側室で愛王丸の生母(小少将)とされる人物ですが詳細は不詳。

愛王丸: 愛王丸は朝倉義景の2男とされる人物で(生母は斎藤兵部少輔の娘とされる小少将)、長兄の阿君丸が早世した為、嫡子として将来が嘱望されていましたが、一乗谷が陥落後、義景と共に一端は賢松寺に逃れました。しかし、一族である朝倉景鏡の裏切りにより義景は自刃、その隙に愛王丸は高徳院、祥順院と共に逃れたものの捕縛され岐阜城(岐阜県岐阜市)に移送される途中、今庄(福井県南条郡南越前町)で織田信長の家臣丹羽長秀により殺害されたと伝えられています。

朝倉義景・高徳院・祥順院・愛王丸の墓碑は寛政12年(1800)に朝倉家の後裔とされる花倉家が松田与惣左衛門と協力して曹源寺の境内に建立し、文政5年(1822)に現在地に移転されたもので、大野市指定史跡に指定されています。

朝倉義景・高徳院・祥順院・愛王丸の墓碑:写真
朝倉義景墓 朝倉義景墓 朝倉義景墓 朝倉義景墓
一乗谷朝倉氏遺跡:写真
朝倉義景と縁がある一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉義景館跡 朝倉義景と縁がある一乗谷朝倉氏遺跡の諏訪館跡庭園 朝倉義景と縁がある一乗谷朝倉氏遺跡の湯殿跡庭園 朝倉義景と縁がある一乗谷朝倉氏遺跡の中の御殿跡



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