【 概 要 】−本多重昭は寛永11年(1634)、丸岡藩2代藩主本多重能と大久保忠常の娘との子供として生まれました。慶安4年(1651)に重能の死去に伴い慶安5年(1652)に本多家の家督を継ぎ丸岡藩3代藩主を就任しています。寛文3年(1663)と延宝元年(1673)に大坂加番を命じられています。領内では3度の検地を行い藩政の基盤を固めています。重昭は信心深い人物で、寛文10年(1670)には丸岡城の鬼門鎮守である長畝八幡神社(福井県坂井市丸岡町長畝)に社領九段余歩を寄進しています。
丸岡藩の総鎮守である國神神社には天国宝剣(伝説の刀工「天国」作)を奉納し、國神神社の別当寺院である寶積院に黒印状を発布しています(伝説によると男大迹王が皇位を継承する為に越前国を去る際、愛用していた宝剣と霊蓋を天嶺(剣蓋岳)に納めました。その伝説を聞き及んだ丸岡藩の藩士が宝剣を掘り出し重昭に献上すると、重昭は余りにも恐れ多いとし國神神社に奉納したと伝えられています)。
本多重昭は浄土真宗西本願寺派の好善寺(現在の受法寺:福井県坂井市丸岡町山久保)住職である寿法を篤く帰依し、参勤交代の際には共に連れて行った程でした。寛文12年(1762)には西本願寺の寂如に好善寺の寺格昇進と座敷待遇の格上げを懇請し土佐国受法寺の浮寺号を受けています。
寛文6年(1666)には高野山金剛峯寺(和歌山県伊都郡高野町)に数多くの品々を奉納しており続宝簡集八(本多重昭寄附宝物覚書、本多重昭宝物奉納状案)と続宝簡集六四(本多重昭寄附宝物御影堂奉納覚書案)は国宝に指定されています。延宝4年(1676)死去、享年43年、智光真海重昭院、本多家の菩提寺である本光院に墓碑が建立されています。
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