武田元光:概要

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概要・歴史・観光・見所
武田元光(発心寺)

【 概 要 】−武田元光は明応3年(1494)に若狭武田氏の第5代当主武田元信の2男として生まれました。永正16年(1519)に元信は、形式上出家して家督を元光に譲り大永元年(1521)に死去し仏国寺(福井県小浜市)に葬られています。元光は7代当主を就任すると大永2年(1522)には後瀬山城(福井県小浜市:標高160mの後瀬山頂に築かれた中世の山城、国指定史跡)を築き麓には守護所(現在の空印寺一帯)を設けて領内を支配を固め、中巌宗恕(臥竜院七世の弟子)を召還し菩提寺となる発心寺(小浜市)を創建しています。その後は室町幕府管領細川高国方の有力武将として行動し、大功を挙げる一方で大永7年(1527)には三好勝永、柳本賢治の軍と交戦となり敗北を喫しています。

武田元光は幕府から信任が篤かったもの、高国方の軍事行動が多かった事から領内経営が疲弊し、一族や家臣の不審を招き不安定な状況が続き、享禄3年(1530)に出家(譲大膳太夫入道宗勝に改名)し形式上は家督を子供である信豊に譲っています。しかし、弟である武田信孝が反旗を翻しそれに呼応した重臣粟屋元驍ェ離反した事で天文7年(1538)には内乱に発展します。天文8年(1539)に病気の為に発心寺に隠居、実権も信豊に正式に譲った為、信豊には従五位下、伊豆守が任ぜられています。

武田元光は天文20年(1551)に死去、菩提寺である発心寺に葬られています。法名「発心寺殿天源宗勝大居士」。享年58歳。又、発心寺境内周辺は小浜城の城下町時代の町並みが色濃く残す地域(小浜西組)で名称「小浜西組重要伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています(発心寺の境内は小浜西組には含まれていません)。

発心寺:写真
発心寺山門から見た境内の様子 発心寺参道に設けられた石橋から見る庭園 発心寺石畳みから見た本堂正面と背後の里山 発心寺庭園の植栽越に見える庫裏
小浜西組:写真
小浜西組:町並み 小浜西組:町並み 小浜西組:町並み 小浜西組:町並み



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