【 概 要 】−松平重富は寛延元年(1748)、徳川宗尹(一橋徳川家)と遊歌(細田助右衛門の娘)との子供として生まれました。宝暦8年(1758)、福井藩11代藩主松平重昌が死去した事に伴い末期養子となり福井松平家の家督を継ぎ、福井藩12代藩主に就任しています。宝暦10年(1760)に元服、従四位上・左近衛権少将に叙任、9代将軍徳川家重から偏諱を受けて重富と名乗っています。就任した当初から福井藩の財政が逼迫し、宝暦8年(1758)には農政の抜本的な見直し、宝暦11年(1761)には家臣の給禄の半分を借り上げ、宝暦11年(1761)には代官を半減し、同年に3年間の年季定免を命じています。
ただし、その後も天候不順による不作が続き、重富自身も華美な生活を改め無かった事から改革した効果が表れにくく、明和5年(1768)に町在に才覚金1万5千5百両を課したのを契機に大規模な一揆が発生し、福井藩に作食を願い入れています。藩ではすぐさま才覚金の徴収を中止したものの多くの一揆衆が福井城の城下に流れ込み豪商の店や邸宅を打ち壊しを行っています。福井藩は救米として375俵、救籾として850俵を与え、升改めを行い、一方、家老である酒井外記や関係役人、御用達商人等を処分しています。
その後も明和8年(1771)に福井城下で大火、同年には福井城下石場中立矢町で大火、安永元年(1772)には福井藩江戸藩邸が火災で焼失、同年には福井城下で大火、安永2年(1773)には大雨による被害、安永3年(1774)には三国湊で大火、安永4年(1775)には城下の大火で福井城の一部が焼失、安永5年(1776)には福井城下松屋町と神宮寺町で大火、安永7年(1778)には三国湊で大火、同年には大雨で洪水が発生、天明3年(1783)には夏の長雨により不作、天明4年(1784)には福井城下で疫病が流行、同年には三国湊で大火、天明6年(1786)には大雨で洪水が発生しています。
天明7年(1787)には大雨で洪水が発生、寛政元年(1789)には2度に渡り福井城下で大雨による洪水が発生、寛政6年(1794)には福井城下で大火、同年には旱魃、寛政7年(1795)には福井城下が大雨によって洪水発生、寛政8年(1796)には領内全域で大雨による被害があるなど毎年のように天災、人災が続いた為、財政が逼迫し、度々幕府から援助してもらっています。寛政11年(1799)隠居、文化6年(1809)死去、享年62歳、戒名:隆徳院仁誉和順道本大居士、運正寺に墓碑が建立されています。
松平重富は社寺の保護も行い、明和7年(1770)に日吉神社(福井県福井市江端町)の境内にある三日月池の霊水を飲んだところ、頭の病が平癒した事から安永5年(1776)に参拝し葵紋付戸張提灯を寄進しています。寛政7年(1795)には平泉寺白山神社(福井県勝山市)の本殿を造営しています。
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