福井城(続日本100名城・第137番)概要: 福井城は慶長5年(1600)、徳川家康の2男で越前68万石の大大名となった結城秀康(後に松平姓)が築いた城です。築城は慶長6年(1601)から11年、2代藩主松平忠直の時代にかけて行われ、天正3年(1575)に柴田勝家が築城した北の庄城を改修する形をとったとも言われています。
越前の地は徳川将軍家に次ぐ大大名である加賀藩前田家と大坂(築城当時は大坂城に豊臣秀頼が健在)や京都を分断する要地で、越後の高田城と福井城が前田家の居城である金沢城(石川県金沢市)を挟み込むという戦略を想定していたようです。
その為、福井城は幕府から重要視された為、本丸、2の丸の縄張りは徳川家康自ら行ったと云われ(3の丸は吉田好寛)、築城には北陸を中心に全国各地から大名が集められ天下普請の城となりました。福井城の城域は2キロ四方に及び5重の水堀に高石垣、本丸には4重5階の天守閣や3重櫓2基、2重櫓1基、櫓門が設けられました。
元和9年(1623)、2代藩主忠直が乱行の為改易となり、越後高田城(新潟県上越市)の城主で弟の松平忠昌が52万石で福井に入りました。忠昌は当初呼ばれていた北の庄城が落城した城であり、兄忠直が改易になった不吉の城である、北の庄の北が敗北を連想させるなどの理由から福井城に改称したとも言われています。
4代藩主松平光通の時世である寛文9年(1669)、近隣の村が火元になった火災により天守閣を含む多くの建物が焼失、寛文12年(1672)に再建されましたが天守閣は建てられず本丸南西隅の2重2階の巽櫓を3重2階に改修し天守閣の代わりにしました。
12代藩主松平重富の代の安永4年(1775)にも城下の大火で福井城の三の丸の櫓が焼失が焼失するなど度々被害を受けています。貞享3年(1686)、6代藩主松平綱昌の時に25万石となり、9代松平宗昌の時に30万石、13代松平治好の時に32万石となりました。
江戸時代末期には幕末四賢侯の一人に数えられる第16代藩主松平春嶽をはじめ岡部豊後、鈴木主税重栄、中根雪江師質、由利八郎公正などを輩出、早くから新政府軍に加わり、北越戦争や会津戦争、江戸彰義隊の討伐などに従軍して大功を挙げています。
明治4年(1871)の廃藩置県により福井藩が廃藩になると福井城も廃城となり多くの建物は破却、払い下げとなり、その後の市街化で多くの堀が埋め立てられています。福井城の遺構としては本丸御殿の御小座敷と大奥御座が瑞源寺の本堂に移築されています。
福井城は歴史的重要性や遺構的価値などから平成29年(2017)に「続日本100名城・第137番」に選定されています。
福井城:上空画像
|