丸岡本多家:概要

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概要・歴史・観光・見所
丸岡本多家(本光院)

【 概 要 】丸岡藩(藩庁:丸岡城)初代藩主となった本多成重は元亀3年(1572)、徳川家康の重臣本多重次の長男として生まれました。成重は幼少の頃から徳川家に仕えましたが、父重次が徳川家に対し余りにも忠義が篤かった事から家康が豊臣秀吉に臣従した後も豊臣家に対し態度を改めず上総国古井戸(現在の千葉県富津市)に蟄居となってしまいます。

その後。家督を譲られ慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功により慶長7年(1602)に近江国蒲生郡内5千石が与えられ、慶長18年(1613)に福井藩2代藩主松平忠直(家康の次男結城秀康の嫡男)の付家老として丸岡領4万石が与えられます。成重は幼少時に結城秀康と共に秀吉の人質になっていた縁もあり松平(結城)家に対し尽力しました。元和9年(1623)、忠直は大坂の陣での恩賞を不服とし幕府に対し不穏な動きを取った為、強制的に隠居し豊後国大分に流されました。

福井藩領は一旦幕府が預かり、その後、成重には改めて丸岡領4万6千3百石が与えられ、独立した大名として丸岡藩を立藩、初代藩主に就任しています。正保3年(1646)に隠居した際、嫡男重能は家督を継ぎ、次男重看には3千石を分知した為、丸岡藩は4万3千石となっています。正保4年(1647)死去、享年46歳、戒名「本光院殿鉄哉士庵大居士」。

その後、2代重能(慶安4年:1651年、死去、戒名「:常然院殿光厳在心大居士」)、3代重昭(延宝4年:1676年、死去、戒名「重照院殿智光真海大居士」)と無難に藩政を担っていましたが4代藩主となった本多重益は暗愚だった為、重益を隠居させ弟の重信を擁立しようとした太田又八派と重益に取り入り実権を掌握しようとした本多織部派に別れ激しい争いとなり、元禄8年(1695)に幕府の裁定により本多家は改易となり重益は池田家に身柄を預けられました。本光院は本多成重により創建された本多家の菩提寺で、境内には本多重次・成重・重能・重昭の4基の墓碑(五輪塔)が残され坂井市指定史跡に指定されています。

本光院:写真
丸岡本多家と縁がある本光院 丸岡本多家と縁がある本光院 丸岡本多家と縁がある本光院 丸岡本多家と縁がある本光院
丸岡城:写真
丸岡本多家と縁がある丸岡城 丸岡本多家と縁がある丸岡城 丸岡本多家と縁がある丸岡城 丸岡本多家と縁がある丸岡城



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