間部家:概要

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間部家(萬慶寺)

【 概 要 】−間部詮房は甲府藩主・徳川綱豊の家臣である西田清貞の子供でしたが幼少時には猿楽師・喜多七太夫の弟子として成長しました。その後、綱豊の家臣となり、綱豊が6代将軍に就任し徳川家宣を名乗るようになると重用され、高崎藩(群馬県高崎市)5万石、側用人、老中格にまで出世し幕政でも大きな影響力がありました。しかし、8代将軍に徳川吉宗が就任すると粛清され要衝だった高崎藩から村上藩(新潟県村上市)に移封され失意のままこの世を後にしました。

跡を継いだ間部詮言も同様に粛清の対象となり、享保5年(1720)に村上藩から僻地とされる鯖江藩(福井県鯖江市)、さらに城主格も剥奪されました。又、鯖江藩は表高の5万石と変わらなかったものの実石が少なかったとされ、飛地が多く本拠となるような町も無かった事から当初から財政が逼迫しました。

間部詮房の跡を継いだ間部詮方は鯖江陣屋や領内の整備、陣屋町の町割など積極的に行いましたが宝暦5年(1755)の鯖江大火災により努力も粉塵となりました。7代藩主となった間部詮勝は奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代などの要職を歴任し、城主格に再び昇格(鯖江城の築城計画があったものの財政難などで頓挫)、天保11年(1840)には西丸老中になるなど幕政で大きな影響力を行使し、井伊直弼と共に安政の大獄を断行しています。しかし、政争に敗れ詮勝が失職すると1万石に減封となっています。

萬慶寺(鯖江市)は享保5年(1720)に間部詮言が鯖江藩に移封になった際、村上城(新潟県村上市)の城下町に境内を構えていた常福寺の僧である陽光和尚を招き創建され寺院で、間部家歴代の菩提寺となりました。萬慶寺本堂天井絵である「風神図」、「龍神図」、「雷図」は間部詮勝が製作したもので鯖江市指定文化財に指定されています。萬慶寺境内には5代詮煕、6代詮允、8代詮実室徽美、間鍋勘解由の墓碑が建立され鯖江市指定史跡に指定されています。

萬慶寺:写真
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