鯖江藩陣屋概要: 享保5年(1720)、間部詮言が村上藩(新潟県村上市)から5万石で移され鯖江藩を立藩、しかし、当時の領地は小浜藩と福井藩、誠照寺の寺領が複雑に入り組み、人口が集中するような集落がなかったとされます。間部詮言の義父である間部詮房は6代将軍徳川家宣と7代将軍徳川家継の側近として幕政に大きな影響力があり異例の出世を重ねましたが、8代将軍に徳川吉宗が就任すると事実上排斥され要衝である高崎藩(群馬県高崎市)から村上藩に移封され、跡を継いだ詮言はさらに鯖江藩に移封されました。石高は5万石と変わらないものの事実上の左遷でこれにより間部家が幕政に対する影響力は皆無となりました。詮言は享保6年(1721)から旧代官所を陣屋として改修し城下町も建設、北陸道も整備され享保13年(1728)に一連の工事が完了したものの僻地での藩の財政も厳しいものとなりました。
天明4年(1784)には4代藩主間部詮茂が陣屋の一角に間部詮房を祀る受福堂を設けた一方で、天明の大飢饉が領内を直撃し領民も疲弊しています。鯖江藩は5万石ながら城主格では無かった事から土塁や枡形門がありましたが、手狭な陣屋構えを余儀なくされました(絵図では誠照寺の方が立派な印象を受ける)。7代藩主詮勝が老中になった天保11年(1840)に城主格となり築城が許され軍学者宮田景厚(小浜藩士)を召還し縄張り図を作成、幕府からも資金として5千両を賜ったものの、資金難などから築城には至りませんでした。明治時代以降は廃城となり殆どの遺構は破却、市街化計画により陣屋の痕跡すら見ることは困難です。鯖江藩陣屋の遺構としては受福堂御門が松阜神社の神門(切妻、桟瓦葺、一間一戸、薬医門、鯖江市指定文化財)に、陣屋の御用屋敷門が萬慶寺の裏門(赤門:切妻、桟瓦葺、一間一戸)にそれぞれ移築されています。
鯖江藩陣屋:上空画像
【 参考:サイト 】
・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-福井県-出版元:株式会社人文社
・ 日本の名城・古城辞典-出版元:株式会社TBSブリタニカ
・ 日本の城下町6北陸-出版元:株式会社ぎょうせい
・ 現地案内板-鯖江市教育委員会
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