武田信親(若狭武田氏):概要

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武田信親(栖雲寺)

【 概 要 】−武田信親は若狭武田氏の第3代当主、若狭国守護職(守護所:後瀬山城−福井県福井市)の武田国信の子供として長禄2年(1458)に生まれた人物とされます。室町幕府8代将軍義政、9代将軍義尚に仕え御供衆や相伴衆などの要職を歴任しています。特に義尚には重用され、度々犬追物興行を随伴し文明12年(1481)には管領に次ぐ席次である「相伴衆」に就任しています。

信親は禅宗に帰依した事から当時、名僧として知られた一休宗純の弟子となり、文明14年(1482)には建仁寺系の僧侶を召還し栖雲寺(小浜市)を再興しています(伝承では甥である潤甫周玉が文明14年に栖雲寺を創建とありますが、記録上には応永14年:1407に栖雲寺は既に存在していた事が記載され、武田信親が24歳の時の甥という事は10歳に満たないと考えられ、後に潤甫周玉が住職になった際に自ら開山者にしたとも推定されます)。その間、国信から家督を譲られ4代当主に就任し明治17年(1485)に死去しています。

ただし、若狭武田家の資料には統一制が欠き、武田信親が永正15年(1514)に死去した記録があり、それによると10代将軍足利義稙にも重用され、明応元年(1492)や永正5年(1508)の六角氏との戦いに参陣し勝利を収めた事になっています。どちらの年号が正しいのかは不詳ですが、信親が死去すると栖雲寺が菩提寺として定められ、法名として「栖雲寺殿」が贈られ、栖雲寺境内には信親のものと伝わる墓碑(供養塔)が建立されています。

又、栖雲寺境内周辺は小浜城の城下町時代の町並みが色濃く残す地域(小浜西組)で名称「小浜西組重要伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

栖雲寺:写真
武田信親と縁がある栖雲寺 武田信親と縁がある栖雲寺 武田信親と縁がある栖雲寺 武田信親と縁がある栖雲寺
小浜西組:写真
小浜西組:町並み 小浜西組:町並み 小浜西組:町並み 小浜西組:町並み



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