【 概 要 】−朝倉孝景は越前朝倉家7代当主で、幼少時に父親で6代当主家景が死去した為、当初は祖父で5代当主だった朝倉教景の補佐を受けながら当主の役割を果たしました。当時の朝倉家は越前守護職の斯波家の被官でしたが、長禄2年(1458)から行われた長禄合戦では、越後守護代だった甲斐氏に従い、斯波家と対立ました。教景はこの戦いで大功を挙げた事で、越後国内で朝倉家の地位が飛躍的に高まり、斯波家の勢力は陰りを見せる事になりました。応仁の乱では一転して斯波氏に従い西軍に与し、大きな戦功を挙げていましたが、文明3年(1471)以降は東軍に転じ西軍側の越前勢力を一掃し越前守護職に任命されています。
孝景は家臣に対しては一緒に酒や食事を共にし、傷や病気の際には治療、死去した際には篤く弔った事から人望が篤く忠誠心を持った屈強精鋭な軍を持つ事が出来ました。又、戦に対しても占いや吉凶など信じず合理的な戦略を立てた為、多くの合戦に勝利し周辺の大名からは恐れられ一目置かれる存在となりました。一方、対外的には容赦が無く、特に多くの荘園を支配下に入れた為、荘園主だった社寺からは怨まれました。文化教養面も優れていたとされ、一乗谷に花咲いた地方文化の基礎を固め、地方大名の法律として名高い「朝倉孝景条々」(朝倉敏景十七箇条)を制定した人物とも云われています。しかし、斯波家や甲斐家などの反発により再び混迷する事態に陥いり、戦乱の中、文明13年(1481)に死去。
現在、一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)に建立されている墓碑は江戸時代初期の元禄、宝永年間(1688〜1710年)に心月寺(孝景が祖父教景の菩提を弔う為に創建した朝倉家の菩提寺)18世龍堂が修復したもので、孝景の戒名「一乗寺殿英林宗雄居士」に因み「英林塚」と呼ばれています。
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