越前大野藩概要: 天正3年(1575)、織田信長の家臣・金森長近がこの地に3万石で配されて、越前大野の築城や城下町の建設などを行い越前大野の基礎が築かれました。天正14年(1586)に長近は飛騨高山(岐阜県高山市)に移封になると長谷川秀一、青木一矩、織田秀雄と短期間で領主が変わり、関が原の戦い後は結城秀康が立藩した福井藩に属し越前大野には家臣である土屋正明を配します。正明は秀康の側近だった為、秀康が慶長12年(1607)に亡くなると殉死し、変わって小栗正高が配されます。
元和9年(1623)、福井藩主松平忠直が改易になると本藩である福井藩には松平忠昌、当地は寛永元年(1624)に松平直政(結城秀康の3男)が5万石で入封し大野藩を立藩、寛永12年(1636)に直政が松本藩(長野県松本市)に移封になると松平直基(結城秀康の5男)が勝山藩から5万石で入封、さらに松平直基が山形藩(山形県山形市)に移ると、再び勝山藩から松平直良が入封します。
2代直明が天和2年(1682)に播磨明石藩(兵庫県明石市)へ移封となると変わって土井利房が4万石で入封、土井家が藩主になると藩政が安定し土井氏8代が藩主を歴任し明治維新を迎えます。越前大野藩は江戸時代中期以降、度重なる飢饉や藩主が幕府の要職についた為財政が逼迫し小規模な一揆や打つ壊しなどが度々起るようになります。土井7代藩主利忠は藩士の倹約と俸禄借上や削減、殖産興業の育成、藩直営の大野屋の開設、鉱山開発、藩校明倫館の開校、洋式軍制への転換、蝦夷地の探検開拓事業など様々な藩政改革を行い、改革後8年には藩の借財の処理が完了したとされます。戊辰戦争では新政府軍に与し函館戦争にも参戦しています。
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越前大野藩歴代藩主
| 藩主名 | 藩主年間 | 石高 | 備考 |
初代 | 松平直政 | 1624〜1633年 | 5万石 | |
初代 | 松平直基 | 1633〜1644年 | 5万石 | |
初代 | 松平直良 | 1644〜1678年 | 5万石 | |
2代 | 松平直明 | 1678〜1682年 | 5万石 | |
初代 | 土井利房 | 1682〜1683年 | 4万石 | |
2代 | 土井利知 | 1683〜1743年 | 4万石 | |
3代 | 土井利寛 | 1743〜1746年 | 4万石 | |
4代 | 土井利貞 | 1746〜1805年 | 4万石 | |
5代 | 土井利義 | 1805〜1810年 | 4万石 | |
6代 | 土井利器 | 1810〜1818年 | 4万石 | |
7代 | 土井利忠 | 1818〜1862年 | 4万石 | |
8代 | 土井利恒 | 1862〜1871年 | 4万石 | |
大野藩と街道−大野藩の主要街道は美濃街道と勝山街道で、美濃街道は福井(浅水宿・福井城下春日口・福井城下勝見口)から、大野城下を経て、美濃国(現在の岐阜県)に至る街道で、福井、大野間には一乗谷があった為、戦国時代に越後国守護朝倉氏が織田信長に滅ぼされるまでは主要道として機能した為、街道沿いには朝倉氏庵系の史跡が点在しています。江戸時代に入ると、大野藩主の参勤交代の経路として重要視され、初日は美濃街道から北国街道に入り府中宿で宿泊しています。大野城下に町割りされた七間通りは美濃街道沿いにあり、現在でも伝統的な町屋建築が軒を連ね、往時の雰囲気が残されています。勝山街道は福井城下、勝山城下、大野城下を結ぶ街道で、勝山藩主が参勤交代で利用した他、白山信仰の越前側の中心として栄えた平泉寺白山神社が控えていた為、信者達の参詣道となりました。
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