楠木正成公墓塔:概要

  福井県:歴史・観光・見所平泉寺白山神社(越前馬場)>楠木正成公墓塔

概要・歴史・観光・見所
楠木正成公墓塔(平泉寺白山神社)概要: 楠木正成公墓塔は延元元年(1336)、楠木正成公墓塔に設けられた石造玉垣正成の甥で平泉寺の宗徒だった恵秀律師(楠木孫三郎)によって建立されと云われています。楠木孫三郎は正成の異母弟である正遠の子供され武者修行の末、平泉寺白山神社に辿り着きました。その後出家して恵秀の法名を賜い律師となり、元徳元年(1329)に平泉寺の実力者の娘を妻として迎えています。延元元年(1336)、恵秀は三之宮に参拝したところ、騎馬姿の正成が出現した為、不安が募っていましたが、数日後、出現した時に正成が湊川の戦いで敗れて自刃した事を知り、正成が出現した場所を聖地として五重の石塔を建立し菩提を弔ったと云われています。その後、正成と同じく南朝方の武将新田義貞が尊良親王(後醍醐天皇の皇子)が越後に本拠を移した為、恵秀も平泉寺白山神社の僧兵を集めて参陣し北朝軍と交戦、延元3年(1338)に戦死しています。ただし諸説あり、恵秀律師は正成の弟で西念寺を再興したとも、従兄弟とも遠縁とも云われています。恵秀が死去すると平泉寺白山神社は北朝に転じ新田義貞を死に追いやると北朝方の武将斯波高経から藤島荘一円が寄進されています。楠木正成公墓塔はその後も篤く護られ寛文8年(1668)に福井藩4代藩主松平光通の寄進により石柵と参道が整備されました。

【 楠木正成 】-楠木正成の出生は不詳ですが河内を本拠とする土豪されます。伝承によると、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕運動である元弘の乱に失敗し笠置山に立て籠もった際、霊夢に神の遣いと思われる童子が出現し大木の南側に置かれた立派な椅子に案内された事から「楠」の字が幸運を招くとして楠木正成を召還したと伝えられています。

正成は後醍醐天皇の期待に応え「赤坂城の戦い」や「千早城の戦い」で僅かな手勢で幕府の大軍を迎え撃ち大功を挙げています。鎌倉の幕府崩壊には足利尊氏や新田義貞が直接的な攻撃によるものでしたが、正成は常に後醍醐天皇の近くで補佐していた事からその後に成立した建武の新政でも河内国、和泉国の2国の守護職に就任するなど重用されました。

しかし、建武の新政は天皇中心に多くの公家や寺院が重用、倒幕に関わった武士は軽視され恩賞も満足いくものではなかった為、足利尊氏を中心に反対派の武士達が反乱を起しました。当初は新田義貞、楠木正成、北畠顕家などの活躍により有利に展開していましたが、九州に逃れた尊氏は戦力を整え京都に侵攻、正成は僅かな手勢をもって迎え撃ちましたが「湊川の戦い」に敗れ自刃しています(一説には正成軍800人、尊氏軍20万とも)。

楠木正成公墓塔:上空画像

楠木正成公墓塔(平泉寺白山神社):写真

苔むした基壇の上に建立されている楠木正成公墓塔
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