三国湊町

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三国湊町
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【三国湊町】−三国湊は古くから良港として知られ室町時代には三津七湊の1つとして数えられました。湊を眼下に納める高台には延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載されている三国神社(当時の三國神社)が鎮座し町の歴史の古さが窺えます。三国湊は物流の拠点として重要視され南北朝時代に三国湊城(湊ノ城、千手寺城)が築かれると度々攻防戦が繰り広げられています。江戸時代に入ると福井藩丸岡藩に属し、福井城丸岡城の外湊として整備拡張すると共に篤く保護されました。特に寛文12年(1672)に河村瑞賢が西廻り航路を開削すると三国湊は北前船の寄港地として多くの物資が集められました。一方、寛永20年(1643)には福井藩3代藩主松平忠昌は番所を設置し異国船改めが出来るようにしています。

又、九頭竜川舟運の拠点でもあり、上流から舟運に荷揚げされた年貢米や特産物が三国湊で荷下され、北前船で京都や大坂などの大消費地に運ばれいきました。当時の廻船問屋の販路は広く、日本海沿岸の主要な湊と関係を深くし、青森県の三厩(青森県外ヶ浜町、奥州街道の宿場町、北前舟の寄港地)の義経寺では三国湊の船頭がもたらしたという観音像(源義経の持仏)が本尊として祀られています。北前船と舟運によって多くの豪商も輩出し特に加賀藩の庇護を受けた森田家と福井藩の庇護を受けた内田家は大きく繁栄し、敷地内には豪勢や屋敷が建てられ、藩の財政にも大きく寄与しています。特に森田三郎右衛門は明治27年(1894)に森田銀行を創立し往時は福井銀行、大和田銀行に次ぐ規模を誇り当地区の財政に大きな影響力を持ち、内田家には約7千点にも及ぶ古文書や資料が残されています(その後、資料は寄贈された)。

明治時代後期に鉄道などの近代交通網が整備されると北前船も衰微し、三国湊は重要港としての地位は失われましたが、港町らしい良好な伝統的町並みが残される結果となりました。特に、宮太旅館(明治後期建築、数奇屋風建築)や魚志楼(松崎家住宅、明治時代建築、国登録有形文化財)、坂井家住宅(明治時代初期建築、かぐら建て造り、国登録有形文化財)、旧岸名家住宅(三国湊町を代表する豪商、江戸末期建築、かぐら建て造り、国登録有形文化財)、旧森田銀行本店(大正9年建築の近代建築、国登録有形文化財)などは町並みの景観要素として貴重とされます。

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