蓮如聖人旧跡(吉崎御坊跡)概要: 室町時代中期、真宗本願寺は衰微し当時は青蓮院の末寺で、その青蓮院も比叡山延暦寺(滋賀県大津市)の支配下にあった為、宗派の中心寺院としての復帰を画策す蓮如上人(本願寺第八世)は延暦寺と度々対立し迫害されるまでになりました。
文明3年(1471)、蓮如上人は中央から離れ北陸地方の真宗布教の為、越前の吉崎にある北潟湖畔の吉崎山(御山)の頂に吉崎御坊(吉崎道場)を設けました。
当地は興福寺大乗院の門跡である経覚の領地で代官は和田本覚寺の住職蓮光が治めていましたが経覚の生母が本願寺出身で経覚と蓮如は古くからの知り合い、さらに和田本覚寺は本願寺の末寺だった事から最適地とされました。その後、全国から多くの信者や関係者が集まりわずか数年の内に宿坊が100余戸との門前町を形成し真宗の一大拠点となりました。
文明6年(1474)に不審火や文明7年(1475)の平泉寺(現在の平泉寺白山神社)の対立の兵火により多くの堂宇、寺宝が焼失しますが、すぐに再建され浄土真宗の教えは越前、加賀と広まり多くの道場が広がりました。
この頃、加賀守護職富樫家の内紛で教徒達も関与するようになり、文明7年(1475)には吉崎の地まで戦火が及ぶようになると蓮如はここを脱出し若狭に逃れました。永正3年(1506)一向一揆衆は富樫氏を排除し加賀国の実質的な支配を固めると越前に侵攻、九頭竜川で両軍対峙しますが越前守護職の朝倉氏はこれを撃退し、拠点になりえる吉崎御坊を破却し廃坊とさせました。
その後も蓮如上人の旧跡である吉崎御坊跡を巡る攻防戦が幾度と行われました。本願寺が本願寺派、大谷派に分かれると真宗の聖地の1つである吉崎には本願寺派の別院「西御坊」、大谷派の別院「東御坊」が、さらに本願寺派の「吉崎寺」、大谷派の「願慶寺」が設けられました(吉崎御坊跡は両派共有)。吉崎御坊跡は昭和50年(1975)に国指定史跡に指定され御坊の本堂跡や蓮如上人銅像、蓮如上人御腰掛石などの旧跡があります。
吉崎御坊跡:上空画像
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