細呂木宿

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細呂木宿:略データ
・場 所・福井県あわら市細呂木
・概 要・細呂木の地は平安時代頃から製鉄炉が設けられた要地でした。

同時期には保曽呂伎神社が開創され大日本史では従五位に列格し、延喜式神名帳に式内社として記載される等、格式の高い神社だった事が窺えます。

当初は東大寺の荘園に組み込まれていたようですが、東大寺の没落に伴い細呂宣郷は興福寺の荘園となった河口荘十郷の一翼となり、寛弘8年には当国押領使斎藤民部少輔伊傅が守護神として春日神を保曽呂伎神社に合祀し春日大明神と呼ばれるようになっています。

中世に入ると鎮守将軍藤原利仁の後裔である斎藤家の一族が越後国坂井郡堀江郷に土着し、地名に因み「堀江」姓を掲げ、南都興福寺兼春日大社領河口荘、坪江荘に勢力を拡大、当地には一族の細呂木氏が配されています。

細呂木氏は現在の春日神社の境内一帯に細呂木館を設けており、細呂木治部少輔等の城主が確認されています。

一方、交通の要衝でもあり、平安時代に興福寺領になった以降、観音寺川を渡る際には渡り賃が徴収され、橋屋には橋守り役が配されています。

室町時代には既に関が設けられており、慶長6年に結城秀康が越前国守になると細呂木は北国街道(北陸道)の宿駅に選定され改めて観音川の渡には細呂木関所が設置されています。

寛永4年に記録によると関所は左右60間、高さ6尺5寸の柵が設けられ、福井藩金津奉行所から派遣された番人が関守としてその任に当たり3間×4間半の2軒長屋を役宅としていた事が記されています。

細呂木宿の本陣は森家、脇本陣は飯島家が歴任し、森藤右衛門家は問屋や、庄屋役を務める事もあり屋号として「新屋」を掲げています。

飯塚五右衛門家も問屋役を担い、江戸時代中期以降は月の前半15日を藤右衛門家、後半15日を五右衛門家が受け持ったとされます。飯塚家は屋号として「角屋」を掲げ蓮如忌には説教所の一つとなっています。

役馬は17匹が常備され、弘化3年には御用宿10軒、木銭宿5軒、寛政7年には家屋73軒、うち高持は35軒となっています。現在でも古民家が多く懐かしい町並みが残されています。

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