・古代の官道である北陸道は当地から西側に位置する山沿いが経路だったと推定される事から、古くからの宿駅ではなかったとされます。
永仁2年に当地で疫病が発生すると偶々近くを通った日蓮宗の高僧で四条門流の開祖である日像菩薩を北紺屋小兵衛が招いて、疫病退散と平癒の祈祷を依頼しました。
すると、多くの村人が快方に向かい疫病を治まった事から、全ての住民が日蓮宗を信仰する事になったとされます。
その後、日像の弟子である妙文が妙勧寺を開創、戦国時代には越前守護職の朝倉家が寺領10石を寄進する等庇護した事で寺運が隆盛しています。
宿駅としては天正11年に、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利し、当地を掌握した羽柴秀吉が「今宿駅」に対して禁制を発布し、軍勢は身分を問わず狼藉を行わない事や放火を行わない事、犯罪を犯した者を速やかに処罰する事等が記されている事から、既に宿場として発展していた事が窺えます。
当時は福井藩家老本多家の一族とされる福田五郎左衛門家が宿場を仕切っていたようで、上記の禁制の写しや複数の古文書が伝わっています。
江戸時代に入ると福井藩領に属し、正式に北国街道が開削されると宿場町として整備され本陣は池端岡右衛門家が歴任しました。
今宿宿の伝馬役は高持百姓30余人が家割で務めてきましたが、時代が下ると農民層分解が起こったとも云われ高持百姓が減少し、さらに高持百姓の中も大高持百姓と小高持百姓の貧富の差が顕著となり、度々対立しています。
江戸時代末期になると京都での騒動や様々な用事が増えた事に重なり北陸や日本海側の東北地方の諸大名や家臣達が京都を往復する事が著しく増えた事で、宿駅の機能が麻痺しています。
現在も街道沿いには水路や民家、妙勧寺、日吉神社等が建ち並び、懐かしい町並みが見られます。
北国街道:宿場町・再生リスト
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