鯖波宿

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鯖波宿:略データ
・場 所・福井県南越前町鯖波
・概 要・古代の官道である北陸道が開削されると。湯尾峠が鹿蒜駅と淑羅駅を結ぶ経路だったと推定される事から当地もその経路だった可能性があります。

伝説の域を出ませんが、宿場の入口付近に鎮座している白山神社の奥手に築かれた茶臼山城は源頼朝の家臣だった佐藤帯刀が配されたとも云われ、これが事実とすれば、古くから軍事的にも重要視されていた事になります。

地名の初見は「太平記」で、それによると建武3年/延元元年に当初、南朝方だった瓜生保が南朝方の有力武将、脇屋義助や新田義顕等を鯖波宿に歓待した事から、南北朝時代には既に宿駅として成立していた事が窺えます。

暦応元年/延元3年、脇屋義助の軍が偵察の為、鯖波宿まで進軍してくると、北朝方の細川出羽守が好機として急襲し合戦となりました。

南朝方は杣山城から新田義貞、妙法寺城から瓜生重と瓜生照等が援軍として駆け付けた為、全面戦争となっています。結局、この戦いでは南朝方が勝利し北朝方の主力だった斯波高経は、府中も落とされ、足羽郡まで撤退しています。

江戸時代に入り北国街道が正式に開削されると宿場町として整備され、役馬7匹が常備、寛政9年に宗門改帳によると家数は高持14軒、不高持36軒、渡守13軒、合計63軒、219人だったとされ、本陣は石倉猪右衛門家が歴任しています。

石倉家は本陣職の他、問屋や村役人を務める等、鯖波宿の支配層として大きな権限を持っていて持高も82石で宿場内では最も高い石高でした。

その他にも34石余で村役人と宿問屋、酒造、荒物等を手掛けた覚兵衛家と41石余で紺屋職の甚兵衛家があり、天保13年の記録によると酒造1軒、小間物1軒、紺屋1軒、小商人3軒、旅籠屋3軒、木賃宿2軒、茶屋2軒、合計13軒の店舗があったと記されています。

慶応3年に宿場全体が大火に見舞われ殆どの家屋が焼失し、その後順次、再建されました。石倉家は明治維新後も戸長を務める等重きを成し明治11年に行われた明治天皇の北陸巡幸の際には小休所として利用されています。

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