・水落の地は安康天皇の御代に開創されたと伝わる神明社の門前町として成立したと推定される町です。
神明社は当初、文殊山の南麓にあった「湯の花山」に鎮座していましたが。大治4年に現在地に遷座しています。
その後は歴代領主から崇敬庇護され社運も隆盛し、次第に門前町も形成されていったようです。
一方、当地は神明社境内の社叢である「鳥ヶ森」と同様に原生林や原野が広がり交通の開発の妨げになっていたとされます。
ただし、戦国時代には水落集落が宿場町として成立していたようで、荷物を運搬する業者である馬借が存在していました。
そのような中、越前国守護職朝倉家の家臣だった吉江佐内が、朝倉家の滅亡と共に水落村に土着し帰農、主家だった朝倉義景が自刃した地が「大野市清水上」であった事に因み「清水」姓を掲げると、新たな領主となった柴田勝家に従い、北国街道の整備等に尽力した事で、御伝馬方、荷物問屋の許可を得ています。
又、当家の当主は代々六兵衛や六右衛門を名乗っていましたが、これは義景が葬られた六坊賢松寺の「六」に因むとも云われています。
江戸時代に入り、北国街道が開削されると清水家は福井藩松平家から水落宿の本陣職と当村の庄屋を命じられ、宅地1千坪を賜っています。
当地の開発は福井藩2代藩主松平忠直の代に概ね完遂し、現在のような江尻に通じる町並みが形成されました。
特に街道沿いには周辺の村々から人家を集め、多くの特典を許可した事から急速に発展しています。
水落宿では伝馬で利用する馬が10匹常備され、町役人や村方役人によって采配され人馬の手配や荷物を隣に宿場まで運ぶ役割を担う一方で、年貢を一部免除される等の優遇措置もありバランスを採っていたようです。
それでも年貢の調達が出来ず、清水家の主家が切腹して責任を採ったとの逸話も残っています。
現在も江戸時代末期の慶応元年に建てられた清水家住宅をはじめ、古民家や町屋建築が街道沿いに点在し良好な町並みを見る事が出来ます。
北国街道:宿場町・再生リスト
|