・湯尾の地は古くから交通の要衝で、古代の官道である北陸路が開削されると湯尾峠が鹿蒜駅と淑羅駅を結ぶ経路だったと推定されています。
軍事的にも重要視され、寿永2年には平家の反撃に備える為、木曽義仲が湯尾峠に砦を設け本陣を構えています。
延元元年には南朝方の瓜生保が湯尾の地に北朝方の高師泰軍を誘い込み、そこに夜襲をかけ大勝を納めたとされ、敵の多くが討死、又は生捕となり、逃げ出した者は武具を捨て、裸同然で戦場を命辛々離脱したと伝えられています。
「太平記」によると南北朝時代には既に「湯尾ノ宿」が成立していた事が記されており、難所である湯尾峠を控えている事もあり物資輸送や旅人等から利用されていたと思われます。
戦国時代には一時、加賀一向一揆の勢力下に入り、湯尾の地は門徒に与えられ、湯尾城には七里頼周が配されています。
七里頼周は元々は本願寺の青侍でしたが、顕如上人から坊官として抜擢、さらに、加賀一向一揆の指導を命じられ、石山合戦でも活躍し「加州大将」とも呼ばれました。
越前国で、朝倉家が没落すると混乱が生じ、頼周は一揆衆の本願寺門徒の推薦により指導者となりましたが、次第に人望を失い、弾劾状が送られる等分裂を招き、織田勢に大敗すると加賀国に落ち延びています。
当地が織田領になると、家臣である佐々成政に与えられ、天正4年に、その内の150石分が諏訪氏の「堪忍分」として宛がわれています。
諏訪氏は元々、宅良谷に領地があったようですが、宅良谷は前田利家領となった為、従っていた成政領に配置変えが行われたのかも知れません。
又、北陸方面の総司令官となった柴田勝家は本城となった北ノ庄城と安土城とを結ぶ街道の整備に尽力し、湯尾峠の石垣も勝家によって築かれたとされます。
江戸時代に入り改めて北国街道が開削されると、宿場町に選定され、特に福井藩や鯖江藩、大野藩、勝山藩、丸岡藩等は参勤交代等の経路として利用した為、明和元年に資料によると湯尾宿では100疋の役馬が割り当てられ、その内、66疋を直勤、不足の34疋分は銀230匆余を福井藩の上領郡役所に納めています。
問屋も当初は5軒だったものの、荷物や人の往来が増えると7軒に増え、それが原因となり揉め事が発生し元の5軒の問屋が新たに問屋となった武助に対して福井藩の提訴しています。
その後も宿場の上役と庶民層との対立が顕著となり、度々、村方騒動が発生しています。
元禄2年には松尾芭蕉が奥の細道の際、湯尾宿を通過しており、「初音の小坂」に差し掛かった折、鶯の声が聞こえた事から「うぐいすの 初音きかせし しるべかな」の句を詠んでいます。
北国街道:宿場町・再生リスト
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