・金津の地は縄文時代以降複数の史跡が点在している事から古くから人々が生活に適していた地だった事が窺えます。
奈良時代に入ると朝廷の命により東大寺の荘園である桑原庄と溝江庄が成立し、その後は東大寺の没落に伴いその遺領を興福寺が引継ぎ河口庄、坪江庄と呼ばれるようになりました。
中世に入ると堀江氏や溝江氏が国人領主として台頭し、金津には溝江氏が金津城(溝江館)を築き当地を支配しました。
溝江氏は朝倉氏に従っていましたが朝倉氏は天正元年に織田信長に滅ぼされ、さらに加賀一向一揆衆に襲撃された事で金津城は落城し、溝江氏も没落しています。
その後、溝江長逸の遺児である長澄が織田家、豊臣家に仕えた事で大名に取立てられ金津城主に復権しましたが、関ヶ原の戦いで西軍に与した為、改易となっています。
江戸時代に入ると福井藩に属し、慶長18年には九頭竜川以北35村の支配を円滑にする為、金津代官所を設けています。
慶長7年に結城秀康が北国街道を整備した際、当地が15宿駅の一つに定められ、さらに寛永12年に参勤交代制度が施行されると、改めて宿場町として整備されています。
安永2年に編纂されたと推定される「村鏡」によると北金津は水口町、十日町、八日町、坂ノ下町からなり、家屋411軒、人口1394人、旅籠屋60軒、揚屋20軒、遊女持7軒、豆腐屋2軒、紺屋3軒、油屋6軒、大工5軒、鍛冶屋7軒、桶屋6軒、木挽4軒、毛貫屋1軒等が軒を連ねていたとされます。
当地を流れる竹田川は日本海側の要衝の一つ、三国湊に通じる事から物資の集積地として多くの商人やそれを求める人達の往来が盛んで、八日町等の市が建てられ賑わいました。
又、細呂木地域で産出される鉄を当地に集積し舟に積込み竹田川を利用して三国湊に運んだ事から地名「金津」の由来するとも云われています。
南金津、北金津両宿には1軒ずつ、30匹の役馬が義務付けられた問屋が設けられ、本陣は大文字屋(黒坂家)が歴任しています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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