・浅水の地は北陸道と美濃街道が分岐する交通の要衝で、宿場の一角に位置する旧浅水川に架かる「浅水橋」は古代、「あさむづばし」と呼ばれ、平安時代に清少納言が筆した「枕草子」の日本にある橋を紹介する所には「橋はあさむつ橋」と紹介しています。
又、平安時代に隆盛した古代歌謡である「催馬楽」には「 あさんづの橋の とどろとどろと 降りし雨の ふりにしわれを たれぞこの 仲人たてて みもとのかたち 消息し 訪い 」と記されています。
「太平記」によると暦応元年に新田義貞が討死した際、「浅津の橋」で勾当内侍がその報告を受け取ったと記され、「真盛上人往生伝記」によると長享2年に西教寺の真盛の進言により、越前国守護職の朝倉氏が「浅水橋」の橋賃を一時停止したと記されています。
浅水の地は往来が激しく、橋も傷みやすかった事から、大永元年には橋板の表面に鉄板で覆う橋に架け直す為、隣町である水落町衆が建設費を募っています。
「あさむづばし」は景勝地でもあり、当地を訪れた西行法師は「 越に来て冨士とやいはむ 角原の 文殊ヶ岳の 雪のあけぼの 」、松尾芭蕉は「 あさむつや 月見の旅の 明はなれ 」の句を残しています。
鎮守である日吉神社は滋賀県大津市に鎮座している日吉大社の御霊を勧請した神社で、白鳳年間に当地で船守をしていた三神安角妻伊野氏が篤く崇敬し子宝祈願により子供となる泰澄大師を授かったと伝えられています。
宿場の外れの街道沿いには泰澄大師が生誕の地に開創したという泰澄寺が境内を構えています。
江戸時代に入り北国街道が正式に開削されると宿場町として整備され本陣は鈴木家が歴任し駅馬9匹が常備されています。
明治11年に行われた明治天皇の北陸巡幸の際には浅水宿で問屋を担っていた池田家で、明治天皇を始め右大臣岩倉具視、参議大隈重信、井上磬等が休息所として利用しています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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