・脇本荘は「島田文書」によると12世紀前半頃に鳥羽院の中宮の侍賢門院領と記されている事からこの頃に成立したと考えられます。
脇本荘の成立には当地の豪族で河合斎藤系の脇本氏が大きく関わったと推定されています。
河合斎藤氏は鎮守府将軍藤原利仁の子供である叙用の孫で、越前国押領使の藤原伊傅の子供の斎藤則光の孫の斎藤助宗を祖とする氏族で、越前国足羽郡河合郷を本拠地としてその子供の斎藤成実の系統に脇本氏の名が見られます。
古代の官道である北陸道の経路上だった事から平安時代末期には木曽義仲が大塩八幡宮の境内に本陣を構えると、義仲に従った6千の兵は国府、大塩、脇本、鯖波、柚尾坂、今城に連なったとされます。
脇本荘は鎌倉時代には後白河院の皇女宣陽門院から持明院統に遷り、その後、持賢門院を創建した法金剛院領に編成されています。
又、脇本荘の所職には荘内6ヵ村の総社として信仰を集めた熊野神社が与えられていました。
熊野神社は継体天皇が熊野大社の御霊を奉斎する霊地を領内で探していた際、「鶯」の美しい鳴声が聞こえてきた事から霊地と悟り、開創したと伝わる神社で、上記の由緒から「初音宮」とも呼ばれ、地名は「鶯関」と名付けたと伝えられています。
南北朝時代には、南朝方が大塩城に籠ったものの、暦応3年に北朝方の夜襲により陥落した事が「得江頼員軍忠状」に記されています。
江戸時代に入ると福井藩に属し、北国街道が正式に開削されると宿場町として整備されました。本陣職は代々中山家が歴任し、大庄屋を兼ねる等、当地の支配層として大きな権限がありました。
江戸時代後期に幕府が善行者の調査を命じた際、脇本宿から大庄屋の中山長兵衛が「奇特」、無高百姓の伝右衛門が「孝行」に選定されています。
明治11年に明治天皇の北陸巡幸の際には10月8日に中山兆平宅が休息所として利用されています。
現在も中山家は表門等が残され宿場町らしい風情が感じられます。
北国街道:宿場町・再生リスト
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