・鎌倉時代の鯖江周辺は波多野氏が支配していました。
承元元年に、専修念仏禁止令が施行されると親鸞聖人もその罪により越後国に流罪となり、北陸道もその罪により越後国に流罪となり、北陸道を利用し当地を通過した際、当時の当主だった波多野景之は親鸞に帰依し、休息所として自らの別荘を提供しています。
景之は別荘を念仏同上である上野別堂(車の道場)として整備し、当地域で布教を行い、その跡を継いだ道性が弘安2年に波多野家から寺地を与えられ誠照寺を開創しています。
誠照寺は当地域の浄土真宗布教の拠点として寺運が隆盛し、門前町も形成されたようです。
当初の北陸道は神明社から東方に遠回りしており、鳥羽野も原野同然の荒地でしたが、江戸時代初期に当地では名君の誉れ高い福井藩2代藩主松平忠直が積極的に周辺の開発に尽力し、家臣である渡辺牛兵衛に命じて原生林を切り開いています。
これにより北陸道(北国街道)を直進させ、街道沿いには新たな町割りを行い、移住者には霧消で屋敷を与え、租税・公課の免除、商売自由の特権を許可しています。
その後、鯖江村は幕府の直轄領となり元禄4年から享保5年には西鯖江陣屋が設置され当地を支配しています。
一方、街道の東側は小浜藩領、さらに福井藩領が点在する入り組んだ状況が続きました。
享保5年に間部詮言が5万石で入封すると鯖江藩が立藩し、天領時代の西鯖江陣屋を仮藩庁としましたが、西鯖江村は戸数27戸の寒村だった事から、享保6年に現在地である東鯖江村に新たに鯖江陣屋を設けて陣屋町として町割りを行っています。
当初は北国街道の間宿的存在だった門前町も宿駅の機能を持ち合わせた商人町として整備し、享保14年頃に概ね寛政したとされます。
上鯖江宿の枝村である白鬼女村には舟渡し場があった事から、水陸運搬の結束地点として大きく栄えました。
明和元年の記録によると福井藩の上領の宿場だった上鯖江宿から板取、二ッ屋宿へ585匹の伝馬が命じられ相当な負担だった事が窺えます。
又、舟運が盛んになると、多くの物資が舟運を利用するようになり、陸上運送業が疲弊した事から、米や雑穀以外を川舟で舟廻しをする事を禁止する「御定法」が施行されています。
幕末には物価が高騰し、文久2年には駄賃の割り増しを求めています。
鯖江の中心部は明治維新後も当地域の中心として発展した為、街道沿いの多くの建物が近代建築に建て替えられ、往時の風情が失われつつあります。
北国街道:宿場町・再生リスト
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