・金津奉行所は慶長18年に福井藩2代藩主松平忠直によって設けられました。
当初の福井藩は加賀前田家100万石に次ぐ大藩で、当奉行所は九頭竜川以北の35ヵ村約15万石を管理する行政機関としての役割を持ちました。
金津は領内の大動脈だった北陸道と舟運で賑わった竹田川が交わる交通と経済の要衝で、当地に奉行所を設ける事で、行政面でも中心となり大いに賑わいました。
当初の奉行は福井藩の上級武士の末席である「番外席」の家から抜擢され大凡1千石程度の知行高を有していました。
しかし、元和9年に忠直が乱行を理由に強制隠居となり50万石に減石、代わって寛永元年に川北領内に丸岡藩が立藩し、さらに貞享3年に6代藩主松平綱昌が発狂を理由に強制隠居となり25万石になった為、金津奉行所が管轄する領地も最終的には4万5千石程度となり、奉行も大凡500石以下程度の知行高となっています。
江戸時代末期に制作された「坪数写」によると、敷地は3681.68坪で、内部には金津奉行所、奉行の居宅、御茶屋、受込屋敷、組屋敷21軒、楼や及び牢屋番屋敷等が設けられていました。
安政4年に廃止になると、その後は御茶屋定番が置かれましたが、明治2年にはそれも廃されています。
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